ぽん太のよりみち精神科

たんたんたぬきの精神科医ぽん太のブログです。ココログの「ぽん太のみちくさ精神科」から引っ越してまいりました。以後お見知り置きをお願いいたします。

【寺院】布引観音の仏像と伝説

  9月下旬、ぽん太とにゃん子は小諸市にある布引観音に行ってきました。小諸付近は何度も訪れているというのに、これまで行ったことも聞いたこともありませんでした。断崖絶壁に高い櫓を組んで建てられた観音堂は素晴らしく、また「牛に引かれて善光寺参り」という言葉の発祥地でもあるそうで(ぽん太はそれも初耳でした)、とても興味深かったです。

 布引観音の訪問記や観光案内のブログはいっぱいあるので一般的な部分は割愛し、この記事では仏像の紹介を中心に、伝説や、フルーツパーラー万惣との関係など、マニアックな情報を紹介していきます。

布引観音の歴史


 駐車場にあった中部北陸自然歩道の案内板に、布引観音の歴史が書かれていました。布引観音は通称で、正式名称は布引山釈尊寺、現在は天台宗のお寺ですね。

 寺伝によれば、釈尊寺は奈良時代の724年に行基が開き、聖徳太子が作った聖観音を祀ったといいますが、これは伝説っぽいですね(釈尊寺 - Wikipedia)。

  いきなり時代が下って戦国時代となり、1548年に武田信玄の攻略によって焼失。1558年、佐久郡望月地方を支配していた望月左衛門佐信雅(望月氏は滋野氏の子孫だそうです)によって再建されます。しかし江戸時代の1723年に不審火で焼失。現在の伽藍の多くは江戸時代後期に小諸藩主牧野泰明によって再建されたとのことですが、1800年生まれ、1819年に藩主となり1827年に他界しましたから、藩主時代の8年間のどこかですね。

 こんな特徴あるお寺なのに、あんまり歴史が知られてないのが不思議です。

牛に引かれて善光寺参りの伝説

駐車場の案内板に書かれた伝説


 駐車場にあったもう一つの案内板には、「牛に引かれて善光寺参り」の伝説が書かれています。何回か善光寺を訪れたことがあるぽん太ですが、牛車に乗って善光寺参りをすることだと思ってましたが、ぜんぜん違うんですね。

 要約すると、昔このあたりに信仰心の薄い老婆が住んでいました。老婆が千曲川で布を晒していると、右足が現れて角に布をひっかけて走り出しました。老婆は布を取り戻そうと牛を追いかけましたが、とうとう善光寺に辿り着き、老婆はそこで信仰心を持つようになりました。家に帰った老婆がある日布引山を見ると、岸壁にあの布が吹き付けられたいました。老婆は何とか取り戻したいと思いましたが断崖絶壁のため取ることができず、一心に念じているうちに布と共に石に化したということです。おしまい。

 なんか前半と後半がつながってないというか、何で信仰心を取り戻した老婆が石になる必要があるのか、ぽん太にはよくわかりません。

布が岩になったという布岩

 で、次の写真を見ていただきましょう

 おわかりいただけただろうか。

 写真のまんなかあたりに、布のような白い岩が見えますね。老婆の布が岩になったというのは、この岩ではないかと言われています。布引観音のやや西側にあります。ぽん太は見損なってしまったのですが、皆さんはぜひ見逃さないように。

 ちなみにお婆さんが石になった部分はどこだかよくわかりませんでした。

 また善光寺のサイト(逸話|善光寺)では、江戸時代後期に描かれた東都錦朝楼芳虎の「牛に引かれて善光寺参り」という絵に添えられた文章を紹介していますが、信心の薄い老婆が、軒下に干してあった布を牛にさらわれ、追いかけていったところ善光寺に至り、そこで信仰心を起こしたそうです。家に帰って近くの観音堂にお参りしたところ、観音様の足元にあの布があり、さてはあの牛は観音様の化身であったかと気づいたそうです。その観音堂が、いまの布引観音というわけですね。おしまい。

 これでは、善光寺のご利益を強調したかったのか、布と老婆が岩になったくだりは省略されています。いろんなバージョンがあるようですね。

信濃四大伝説とは?

 ちなみに上の写真の案内板に戻ると、「この話は、信州四大伝説の一つとして、今に語り伝えられております」と書かれていますが、「信州四大伝説」で検索しても引っかかってきません。信州の伝説としては、黒姫伝説(竜蛇が姫君に思いを寄せるが叶わず、水害を引き起こす)、鬼無里(きなさ)伝説(天武天皇信濃に遷都しようとしたが、地元の鬼たちが阻止しようとして、一夜で山を築いた)あたりが目につきますが、もう一つはなんでしょう? 戸隠山に関する伝説として、岩戸伝説(天照大神が籠った岩屋の戸が飛んできて戸隠山になった)や紅葉伝説(源経基の寵愛を受けていた紅葉という名の女性が、正妻を呪殺そうとしたため戸隠に流される。追討に来た平惟茂に正体見破られて鬼女の姿を現し、ついに討ち取られる)があるようですが、前者は『古事記』や『日本書紀』といった「公式」の神話から派生した話だし、後者は室町時代に作られた能の「紅葉狩」(歌舞伎化もされている)そのものであり、源経基や平惟茂といった中央の人物が登場するあたり、土着の伝説っぽくない感じがします。

万惣フルーツパーラーが寄進した石仏?

神田市場万惣と刻まれた石仏


 また道の左右にいくつもの石仏が祀られています。ところでこのお地蔵様の写真をご覧ください。

 おわかりいただけただろうか。

 向かって左側に「萬惣信者」、右側に「東京神田市場」と書かれています。これを見てぽん太の頭に浮かぶのは、神田の万惣フルーツパーラーです。

 万惣は江戸時代の1846年に神田青果市場に近い須田町で開業し、果物を商いました。古典落語の「千両蜜柑」に出てくるのはこの店だそうです。1905年には、三菱財閥の岩崎家で栽培されたマスクメロンを日本で初めて販売しました。1927年には万惣フルーツパーラーを開業し、その後あちこちに出店されますが、2012年に神田本店は閉店となり、同年中に全店舗の営業が終了となったそうです(万惣商事 - Wikipedia)。

 営業していた頃の老舗・名店・万惣フルーツパーラーについては、たとえば下にリンクしたブログをご覧ください。

 万惣と布引観音のあいだに何か関係があるんでしょうか? 「万惣 布引観音」で検索してみても何もひっかからないので、両者の間に特別な関係があったわけではないようです。

 いろいろと検索してみると、ぽん太が生息する東京は多摩地区にある高幡不動尊の八十八ヶ所巡りに、万惣が寄進した石仏があるようです。最後の八十八番がそれです(みんなのふるさとこぼれ話29|日野市公式ホームページ)。

高尾山の万惣大師

 などと調べているうちに、高尾山に「万惣大師」なる石仏があり、以前に「万惣大師」という僧を検索したけど見つからなかったことを思い出しました。え〜と、その時撮った写真があるはず。ああ、ありました。

 おわかりいただけただろうか。

 台座に右から「田市場萬惣信者中」と書いてあります。どうやら神田万惣の関係者が、いつの時代かわかりませんが、あちこちのお寺に石仏を寄進をしたように思えます。

 ところで普通「大師」というのは高僧に送られた尊称です。弘法大師空海)などが有名ですね。しかしこの像は台座にはっきりと「薬師如来」と書かれています。左手の上の薬壺(やっこ)こそ失われていますが、台座に薬研や壺が描かれております。また台座に「七十七番 道隆寺」と書かれていますが、これは四国八十八か所めぐりの第七十七番札所の道隆寺のことで、この寺の御本尊は薬師如来です。なんで薬師如来が「大師」と呼ばれるに至ったのか、ぽん太には見当がつきません。機会があったらまたよりみちしてみましょう。

牛岩の牛ってどこにあるの?

 参道を少し進むと、牛岩という岩があります。牛の姿が浮き出ているそうですが、どこがそれなのかよくわからず、ぽん太とにゃん子二人で、あそこだ、いやこっちだなどと言い合いましたが、結論が出ません。

 自分で撮った写真をいろいろながめていたところ、牛岩の少し先にある「善光寺穴」の写真を見て、ぽん太は愕然としました。


 おわかりいただけただろうか。

 わからなかった人のために、線を書き加えましょう。


 信じるも信じないもあなた次第です。


 ちなみにいくつかのサイトを見てみると、正解はこちらのようで、案内板の左上に、こっちを向いた牛の顔が浮き出ています。

仁王門の可愛らしい系の仁王像


 さて、先へ進むと右手に山門が見えてきます。両側に仁王像があるので、仁王門ですね。

 この門から見た観音堂の眺めは圧巻です。昔はここから直登する参道があったのかもしれません。


 こちらが向かって右の阿形。なんかぽっちゃりと子供体型でかわいいですね。足がすごく大きいです。傍には巨大ワラジが奉納されております。


 こちらが吽形。「よっ」と右手を上げてます。

岩窟の男女の石像はあの老婆か?またしても万惣


 現在の山道は仁王門を通り越してなだらかに登っていきます。本堂のある平地に出ると、左に石段があり、その先の岩窟の中に石像があります。登って確かめてみましょう。


 中央には小さめの地蔵菩薩があります。なんとこれにも「東京神田 万惣」と書かれています。「萬」ではなく「万」なので、新しいものかもしれません。また、一つ上の写真の、岩窟の門柱のようなところにも、「東京神田市場 万惣信者中」と彫られています。

 両脇の婦人と男性は誰でしょう。普通の服装で正座をしているので、僧ではなさそうです。夫人はあの「牛に引かれて善光寺参り」の老婆でしょうか。でもそしたら男性は誰? なんか台座に字が書いてあるみたいですけど、他の写真をみると「西瓜」(すいか?)と書いてある。なんじゃそりゃ? ひょっとして万惣の社長? これも機会があったら要再確認ですね。

釈尊寺本堂


 こちらが本堂です。

猫のお出迎え。人懐っこいけど目つきは鋭い


 名物の猫ちゃんがお出迎え。人懐っこくて、人を見ると近寄ってきてスリスリしてくれますが、目つきは意外と鋭いです。

剃髪の女性の石像


 本堂の入り口の向かって左にある石像です。さっきの女性と同一人物だと思われますが、こちらは剃髪しているようですね。

布を持つ女性の木造


 こちらが向かって右の木像。右手に宝珠、左手に持っているのは布でしょうか。やっぱりあの老婆に確定ですね。

本堂内の阿弥陀如来立像


 本堂内の仏さまです。両手の指で輪っかを作ってますから、阿弥陀如来さまでしょうか。

本堂前にある観音菩薩


 本堂の向かい側には、銅像の十一面観音があります。寸詰りなところが古風な印象がありますが、新しいものと思われます。

本堂右側の御堂


 本堂の前を通り過ぎていくと、岩に半分めり込んだ古いお堂があります。

正体不明の十二体の仏像


 内部には小さな仏像が十二体祀られています。中央の厨子の中にも、見えないけどいらっしゃるんでしょうか。手前は護摩壇になってますね。
 セットになってるようですが。向かって左は菩薩のようですが、右は火炎を背負っていたり戟を持っていたりするものもありますが。これらの仏像が何なのか、ぽん太の知識ではちょっとわかりません。

新しそうな牛の石像


 お堂の右には、牛の石像があります。これは新そうですね。

岩に掘られた機関車トーマス


 そして向かって右の崖には機関車トーマスの顔(?)が彫られています。ホントは梵字か何かでしょうか?

県宝の白山社社殿は、白山信仰とは無関係


 白山社社殿(長野県宝)です。案内板には「室町時代初期」と書かれていますが、こちらのサイト(白山社社殿 - 信州の文化財 - 財団法人 八十二文化財団)では「室町時代中期」となっております。布引観音の南に広がる御牧原(御牧ヶ原、みまきがはら)の白山地籍から移築されたために白山社と呼ばれているそうで、ということは白山信仰とは無関係のようです。

僧侶のお墓


 白山社の右側の岩窟には、お墓が並んでします。この丸っこい形の墓石は、お寺のお坊さんたちの墓と決まってます。

銅造の千手観音坐像


 銅造の千手観音様です。

聖徳太子像を祀った御堂


 岸壁にみっちりと埋め込まれたお堂。


 中にいらっしゃるののは、お顔は見えませんが、笏を持って立ってます。下の板に「明治十四巳年四月十一日 奉新勧聖徳太子……」と書かれています。聖徳太子様ですね。ちなみに4月11日には、聖徳太子の命日である旧暦2月22日を新暦に換算した日です。

 上に書いたように、このお寺は奈良時代行基が開き、聖徳太子が作った聖観音を祀ったと伝えられていることから、聖徳太子が祀られたと考えられます。

トンネル手前の地蔵菩薩


 トンネルの手前右側には、地蔵菩薩の石像が祀られています。

六地蔵と奪衣婆・閻魔大王


 トンネルを抜けると、六地蔵があります。一番手前は奪衣婆でしょうか。目をぎょろっとさせ、歯並びが悪くて、いい味を出してます。その向こうの茶色いのは閻魔様でしょうか。これはいけませんね〜。何だかビリケンみたいです。

ユーモラスな狛犬はかなりの名品


 その向こうの石塔(何の石塔か確認できませんでした)には、狛犬がおります。狛犬好きのぽん太としては、この狛犬は得点が高いです。ギロっと笑った歯並びがすごいですね。


 こちらは朽ち果てておりますが、さらにいい味を出してます。

観音堂


 ようやく観音堂に到着です。右側が舞台になっており、左側の本陣は岩窟になっております。1592年(1504年という説もあり)に造営されたと考えられており、その後の戦禍でも焼けずに残ったそうです(布引観音・布引山釈尊寺 |こもろ観光局)。

かつては観音堂の奥から展望台に至る道があった

 観音堂の奥から、かつてはトンネルを通って展望台に至る道があり、途中に木造如来像や虚空菩薩像が安置されているようですが、現在は塞がれて通行禁止になってます(布引観音 (長野)---国内旅行観光ガイド『名勝・史跡★百景』)。

内部に祀られた多数の観音像


 内陣を覗くと、中央に大きめな三つの仏像があり、周囲にはたくさんの小さな仏像があります。観音堂というくらいですから、観音菩薩ですかね。

中央には聖観音・十一面観音・馬頭観音


 中央の三像ですが、真ん中は左手に蓮の花を持っており、聖観音でしょうね。向かって左は頭上に小さな面がいっぱいあるので、十一面観音でしょうか。左手に持つのは蓮だと思われますが、葉っぱの部分が作画崩壊してます。

 向かっって右は、三面八臂で忿怒の表情、正面の合掌しているような手を拡大してみると薬指を曲げていて馬頭印を結んでいることから馬頭観音と思われます。頭上に馬を乗せてるかどうかは、飾りに隠れてよく見えません。

重要文化財観音堂宮殿


 観音堂の建物が重要文化財だと勘違いしている人もいるようですが、重要文化財観音堂の左に納められた上の写真の「宮殿」です。

 鎌倉時代の1258年に作られたもので、1951年に修理復元されるまで、まったく手が加えられませんでした。元々は秘仏聖観音が収められていたそうです(布引観音・布引山釈尊寺 |こもろ観光局)。

大師堂


 来た道を戻って、本堂の前をちょっと行き過ぎると、右手のちょっと高いところにお堂があります。正面には「大師堂」と書かれており、布引観音(釈尊寺)が天台宗のお寺であることから、伝教大師最澄)を祀っているような気がしますがどうでしょう? 登り口がわからず、お堂の前まで行くことはできませんでした。

 こちらのサイト(布引観音・布引山釈尊寺 | こもろ観光局)には、「西行法師(1118~1190)が3年修行した西行窟・爪で岩に経文を刻んだ爪彫り岩・芭蕉句・西行塚・開基行基菩薩・供養仏などが草むらの中に静かに佇んでいます。また、虚空蔵菩薩が堀ノ内城から移設されています。」と書かれています。爪彫り岩は機関車トーマス?。虚空蔵菩薩は、観音堂から展望台に行く道の途中にあるものでしょうか? しかし他のものはどこにあるのかわかりません。今後のよりみちの課題としたいと思います。
 ただしこのサイトにある芭蕉の句「蝙蝠も出でよ浮世の華に鳥」はこちらのサイト(蝙蝠も出でよ浮世の華に鳥|芭蕉DB)にあるように、芭蕉の句であることは間違いありませんが、布引観音との関係は疑わしいです。

基本情報

【寺院】布引山 釈尊寺(布引観音) 天台宗
【住所】長野県小諸市大久保2250
【拝観日】2022年9月下旬
【拝観】たぶん無休  拝観料無料
【駐車場】無料 約10台くらい。