ぽん太のよりみち精神科

たんたんたぬきの精神科医ぽん太のブログです。ココログの「ぽん太のみちくさ精神科」から引っ越してまいりました。以後お見知り置きをお願いいたします。

【仏像】重文の平安後期の仏像群・明通寺@小浜市

 福井県小浜市にある明通寺は、国宝の本堂や三重塔があることで有名ですが、仏像でも御本尊の薬師如来をはじめ、三世明王深沙大将不動明王の4躯の重要文化財を擁してます。このブログでは、明通寺の仏像を取り上げます。

明通寺の歴史・坂上田村麻呂ユズリハ

  明通寺は、平安初期の806年に、征夷大将軍として蝦夷征伐を行った坂上田村麻呂によって創建されたと伝えられています。1334年の「明通寺文書」には以下のような縁起が書かれているそうです(寺田泰明『「棡(杠)」「楪(𣜿)」と「ゆずりは」 (pdf))。

 寺院を建立する地を求めて田村麻呂は矢を放ちましたが、その矢はユズリハの老木に当たりました。その木の傍に住んでいた僧が言うには、山中で眩いばかりの光明を見たので近づいていくと、何と薬師如来であった。嬉しさのあまり抱きついた瞬間、それはこのユズリハの木に変わってしまった。それ以来この木を礼拝供養しているとのことだった。それを聞いた田村麻呂はこの木から薬師如来と、降三世明王深沙大将を造って祀りました。

 明通寺の山号は棡山(ゆずりさん)ですが、棡はユズリハのことです。また現在の明通寺境内には大木をはじめ多くのユズリハが生えているそうですが(ユズリハ - Wikipedia)、ぽん太は確認し忘れました。撮った写真を見てもよくわかりません。

 この縁起話に似たような伝説が昔からあったのか、それとも後付けで作られたものなのか、これもぽん太にはわかりません。

 さて、その後の明通寺の歴史ははっきりしませんが、3度の大火で建物や仏像は失われてしまいました。現在の仏像は平安後期から鎌倉初期のもので、また本堂や三重塔は鎌倉時代中期の13世紀に中興の祖・頼禅によって復興されたものだそうです(明通寺 - Wikipedia)。

鎌倉時代の迫力ある金剛力士


 明通寺でまず私たちを迎えてくれるのが山門(仁王門)です。和様の落ち着いた雰囲気の楼門で、変な自己主張がなく、小浜の風土によく合います。江戸時代後期の再建と推定されていて、小浜市の指定文化財です。

 
 しかしその中の仁王像は躍動感あふれる姿で迫力満点。まさに「鎌倉時代」という感じで、現代のフィギュアと言っても通りそうですね。等身大より一回り大きいくらいですが、でっかく見えます。向かって右の阿形像は口だけでなく両目も見開き、左の吽形像は、写真ではちょっと見にくいですが、目鼻口が1点に集まっちゃってます。素晴らしい金剛力士像で、小浜市指定文化財です。

国宝の本堂にある平安後期の巨大仏像群

 本堂は鎌倉時代の1265年に再建されたもので、入母屋造・檜皮葺の美しい屋根を持っております。国宝に指定されてますが、福井県内で国宝の建造物は、明通寺の本堂と三重塔だけです。本堂のなかに3躯の大きな重文の仏さまと、十二神将が祀られてます。

ちょっと笑ゥせぇるすまんっぽい御本尊の薬師如来

 御本尊の木造薬師如来坐像は像高144.5cmと半丈六よりも大きいです。お写真はこちらの若狭小浜のデジタル文化財が見やすいですかね。

造られた時期は明通寺公式サイトでは「平安時代後期」、国指定文化財等データベースでは「平安時代」、明通寺 - Wikipedia若狭小浜のデジタル文化財では「平安後期〜鎌倉初期」となっていて、意見が分かれています。

 たしかになで肩でふっくらした体型、薄彫りの衣紋の表現などは平安後期の定朝様を思わせますが、お顔が厚くて大きな唇、小鼻が大きく、切長のギョロッとした目、なんか「笑ゥせぇるすまん」の喪黒福造を思わせます。定朝様の優雅で眠たそうな表情ではなく、暑苦しいというか迫ってくる感じがありますネ。呪術的・密教的な印象があります。このあたりが平安から鎌倉の間とされるゆえんかもしれません。個性ある素晴らしい薬師如来様です。

仏像多しといえども神様を踏んづけてるのは降三世明王だけ

 薬師如来の脇侍といえば日光・月光菩薩と相場が決まってますが、明通寺の場合は降三世明王深沙大将というところが変わってます。なぜこの組み合わせなのかは、検索してみましたけどよくわかりません。意図して組み合わされたのか、何からの偶然の事情によるのか。

 さて、御本尊の向かって右に位置するのが木造降三世明王(ごうざんぜみょうおう)立像。像高252.4cmの一木造。お写真はこちらの若狭小浜のデジタル文化財の写真が大きくてきれいです。

 この仏さまはちょっとヤバいです。パワーありすぎです。三面六臂の大活躍どころではなく、なんと四面八臂。顔が4つで手が8本です。そして4つの顔それぞれが、額の中央に縦に目がある三つ目です。髪の毛も逆立ってます。前方の2本の手は小指を絡めた妖しい印を結んでおりますが、降三世印といってこの仏さまだけの独特のかたち。残りの6本の手は武器を持っており、いつでもやったるぜ!という感じです。

 そして極め付けは、両足で踏みつけているもの。普通は邪鬼とかいう、どうでもよさそうな小鬼みたいなのを踏んでますが、降三世明王が踏んでいるのは何やら中国の貴人のように見えます。これがなんと大自在天とその妻・烏摩妃(うまひ、「鳥」じゃなくて「烏」だよ)。大自在天シヴァ神のことで、ヒンズー教のもっとも重要な3人の神様のうちのひとりです。をひをひ、そんなの踏んじゃっていいのかよ〜という気がします。

 というような恐ろしい仏さまですが、平安後期の作ということで、どこか優雅さと気品が感じられるのが驚きです。

西遊記』の沙悟浄のモデル?の深沙大将

 続いて向かって左の木造深沙大将立像です。平安後期作、象高256.6cm、一木造と、降三世明王と対になってます。お写真はやはり若狭小浜のデジタル文化財がいいですね。

 これもまたヤバイです。ヤバイやつの友達はだいたいヤバイと相場が決まってます。同じように髪の毛が逆立ってますが、さらにドクロの髪飾りをつけてます(一般的には首に髑髏の飾りを付けているのが定型のようです)。仏様がこれでいいんかい? そして左手には蛇。極め付けはお腹のところに子供の顔があります。ひょっとして子供を合体融合してしまったのか。あゝ嫌です。

 しかし恐ろしい姿とは裏腹に、実は『大般若経』を守る十二善神の一人で、砂漠で危機を救い病気を癒やし魔事を遠ざける、いい神様なんだそうです(深沙大将 - Wikipedia)。人は見かけによらないと言いますが、本当ですね。細眉金髪ヤンキー風のお兄さんが実はとってもいい人だったというパターンですか?

 玄奘三蔵三蔵法師)が仏典を求めてインドへ旅する途中、砂漠で水がなくて死にそうになったとき、流砂の中から現れて三蔵法師を救ったそうです(深沙大将|コトバンク)。このことから深沙大将は、『西遊記』の沙悟浄のモデルと言われているそうです。

 ところで沙悟浄といえば河童を思い浮かべると思いますが、それは日本だけだそうです(沙悟浄 - Wikipedia)。こちらのよりみちは、またの機会に。

 ところでぽん太の生息地の近くの深大寺は、深沙大将を祀ったのが始まりだそうです。深沙堂には調布市指定有形文化財厨子があり、その中には絶対秘仏の深沙大王像が奉安されているそうです(文化財 | 深大寺公式サイト)。深大寺がある場所が湧水が豊かだったことと関係しているようですが、そもそも深沙大将が水と関係があるというのが既に誤解で……。このよりみちもまたの機会にしましょう。

 重要文化財深沙大将は、明通寺の他には、岐阜県の横蔵寺(写真はこちら→横蔵寺|見仏入門進撃の巨人みたいで怖いです)と京都府舞鶴市の金剛院(写真はこちら→祈りの聖地を巡る旅、これもグレムリンみたいで怖い)の2つしかないそうです。

 ということでひたすら恐ろしい深沙大将ですが、明通寺の像はふと見ると意外とお顔がお優しくて、元貴乃花親方に似ています。また右胸から右腕にかけてが作画崩壊していて、肩が脱臼しているみたいです。

素朴な十二神将

 左右の深沙大将降三世明王の前に、それぞれ6躯ずつ十二神将が安置されています。お写真はこちらの若狭歴史博物館のものが鮮明です(知られざるみほとけ〜中世若狭の仏像|若狭歴史博物館)。

 像高約1mと十二神将に指定は大きめで、ずらりと並ぶと壮観ですが、一つひとつ見るとあんまり躍動感がなく、キャラも立ってません。

 この十二神将に関しては、あまりいわれもわかっていないようです。でも上記の若狭歴史博物館の展示に関わった濱田沙矢佳さんの論文(濱田沙矢佳「福井・明通寺の十二神将立像について」美術史学、42巻、2121.3.31(pdf))がとっても詳しいので、興味がある方は一読をお勧めします。濱田さんは十二神将の制作年代を13世紀後半と推定し、それが中興の祖・頼禅によって明通寺が再建された年代と一致することから、本堂建立の折に薬師如来の脇侍として地方仏師によって製作されたと推測しています。

 この十二神将文化財の指定こそ受けていませんが、長いあいだ明通寺の信仰に深く関わってきたのですね。

客殿の不動明王

 客殿にはもう一躯の重要文化財の仏さまがおります。木造不動明王立像で、ほぼ等身大の大きさ、平安末期の一木彫です。お写真はこちらをご覧ください(木造不動明王立像|若狭小浜のデジタル文化財)。

 元々は芳賀寺の御本尊・十一面観音菩薩の脇侍だったのを、譲り受けたものだそうです。天地眼(てんちがん)・牙上下出(がじょうげしゅつ)のお姿ですが、ちょっと腰を捻っているもののほぼ直立しており、優美さを備えていてあまり怖くありません。

国宝三重塔内陣の美しい釈迦三尊像阿弥陀三尊像

 ちょうどこの時期、国宝の三重塔の第一層内陣の特別公開をしていました。ひっそりとした外観とは対照的に、内陣は極彩色に塗られ、金色の仏像が祀られています。正面には釈迦三尊像(お写真はこちら→明通寺特別公開2022|おばまナビ)、反対側には阿弥陀三尊像があり、柱や壁には十二天が描かれております。

  釈迦三尊像は坐像で、脇侍の文殊と普賢はそれぞれ獅子と象に乗った定型のお姿。鎌倉時代のものだそうです。背面にある阿弥陀三尊像は室町時代のもので、元々ほかのお堂にあったものが移されたもの。脇侍の観音・勢至が立膝のポーズだったのはちょっと珍しい気がします。

提携宿の松永六感・藤屋では明通寺で瞑想や朝食ができます


 明通寺の隣にある宿、松永六感・藤屋に宿泊すると、まだ観光客のいない早朝に国宝の明通寺本堂で、重文の仏さまを前にして瞑想(阿字観)をしたり、客殿で朝食をいただくプランがあります。興味のある方は下にリンクしたぽん太の記事をご覧ください。

基本情報

【寺院名】真言宗御室派 棡山(ゆずりさん) 明通寺(みょうつうじ)  
【住所】福井県小浜市門前5-22
【公式サイト】https://myotsuji.jimdofree.com
【拝観】年中無休 拝観料500円。
【仏像】◎重文  □市指定
◎木造薬師如来坐像 像高144.5cm 寄木造 平安末~鎌倉初期
◎木造降三世明王立像(ごうざんぜみょうおう) 像高252.4cm 一木造 平安後期 
◎木造深沙大将立像(じんじゃたいしょう) 像高256.6cm 一木造 平安後期
◎木造不動明王立像 像高161.8cm 桧 一木造 平安末期 重要文化財  
十二神将 玉眼 鎌倉時代から室町時代
釈迦三尊像
阿弥陀三尊像
□木造金剛力士像  像高 阿形189cm、吽形188.5cm 寄木造 玉眼 鎌倉時代 文永元年(1264)