奈良県東大寺で行われるお水取りは、春の訪れを告げる行事として有名ですが、その時使われる霊水が、小浜市にある鵜の瀬から「お水送り」という神事によって送られることはあまり知られていません。
この記事では、福井県小浜市の神宮寺・鵜の瀬で行われるお水送りについて説明します。
奈良東大寺のお水取りとは
奈良の東大寺二月堂では、3月1日から2週間にわたって修二会(しゅにえ)と呼ばれる儀式が行われます。選ばれた行者が、二月堂の本尊十一面観音に罪を懺悔し、天下安泰・五穀豊穣などを祈ります。
二月堂の舞台で火のついた巨大な松明を振り回す行事は有名で、ぽん太も以前に見学したことがありますが、それはそれは神秘的で感動的な体験でした。修二会の期間中の3月12日の深夜(つまり3月13日の午前1時30)頃からは、「お水取り」と呼ばれる儀式が行われます。二月堂の傍にある井戸(閼伽井屋、あかいや)からお香水(おこうずい)と呼ばれる神聖な水を汲む儀式で、この水は二月堂の須弥壇の下の壺に蓄えられ、1年にわたって様々な宗教行事で使われます。
これら二つの儀式が有名なので、修二会のことを「お松明」とか「お水取り」と呼ぶくらいです。
詳しくは下のリンクをご覧ください。
小浜市で行われるお水送り
東大寺のお水取りで汲み上げるお香水は、小浜市から奈良の東大寺まで、地下を通って10日間かけて送り届けられるとされており、小浜市では毎年3月2日に「お水送り」の神事が行われます。神宮寺の神事で井戸から汲み上げられたお香水は、松明行列を伴って1.8km上流の鵜の瀬に運ばれ、川の中に注がれます。
松明に照らされながら白装束の僧たちが行う神仏混淆の儀式はとても神秘的です。詳しくは下の小浜市観光・おばまナビ」のサイトをご覧ください。
若狭神宮寺ので井戸から汲んだ水をお香水に変える
神宮寺の本堂です。室町時代の1553年に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。お水送りの儀式・修二会(しゅにえ)が行われる場所です。
あれ、修二会って東大寺二月堂で行われるんじゃないの?と思う方も多いかと思いますが、修二会は元々は一年の平穏と豊作を祈る仏教の行事であり、各地で行われました。このうち東大寺の修二会が特に有名ということですね。
内部には、ご本尊の藤原時代の薬師如来坐像を始めとしてたくさんの仏像が祀られておりますが、それに関しては下にリンクしたぽん太の以前の記事をご覧ください。
本堂の向かって左にあるお堂には、室町時代初期に作られた木造男神・女神坐像が祀られております。国の重要文化財です。公開はされておらず、以前に案内して下さった檀家の方も「もちろん見たことがない」そうで、「見たのは住職さんぐらいでは」とのことでした。
神様が祀られていることからわかるように神仏習合の残るお寺で、お参りの時に柏手を打ったりするそうです。
実は日本では、古くから仏教と神道が入り混じっていたのであり、それが明確に区別されるようになったのは明治維新の神仏分離以降のことに過ぎません。神道の神様は、仏教の仏様が別のお姿で現れたものだと考えられておりました。ですから神社には必ずお寺が造られ、「神宮寺」と呼ばれました。若狭神宮寺も、元々は若狭彦神社の「神宮寺」だったのが、固有名詞化したのでしょう。
普通なら、明治の神仏分離令のときに神像は若狭彦神社に移されるような気がしますが、御移しするのがとても恐れ多いと感じたのか、神仏分離令が小浜にはあまり及んでいなかったのか、ぽん太にはわかりません。
境内にあるこちらの建物のなかに井戸があり、「閼伽井戸」と呼ばれます。
ここ汲まれた水が、本堂で行われる行法によって「御香水」に変えられます。
庭では、弓打ち神事や大護摩法要(おおごまほうよう)が行われます。大護摩の火は松明に移され、御香水を守りながらの松明行列が、遠敷川(おにゅうがわ)の1.8km上流にある鵜の瀬まで続きます。
なお松明行列は一般観光客も参加可能なので、希望の方はお調べください(2022年はコロナ感染防止のため関係者のみで行われました)。
若狭彦神が降り立った鵜の瀬に御香水を注ぐ
こちらが遠敷川(おにゅうがわ)にある鵜の瀬の降り口です。神道らしい簡素な鳥居が立ってます。
二番目の鳥居の傍に祠があります。どのようなものか、ぽん太にはわかりません。
ちょっとした瀬に見えますが、ここに注がれた香水が10日間かけて地下を抜けて、奈良の東大寺の井戸に湧き出すと信じられています。
お水送りの写真は、冒頭近くにリンクしたサイトにありますが、白い装束が松明の光で浮かび上がり、とても神秘的に見えます。
鵜の瀬公園資料館です。入館無料ですが、内部はあまり広くありません。お水送りのジオラマや写真などがあります。
室町時代の役行者像も展示されてました。奥の黒い像ですが、歪んだ表情に迫力を感じます。地元で作られたものでしょうか。手前の小さい像は江戸時代に作られた役行者と前鬼・後鬼像とのこと。こちらはおとなしく綺麗にまとまってますね。
傍にある祠には、白石大明神が祀られています。本殿を包むように建てられた小屋の白いペンキが、何やら神秘的です。周囲は椿の古木が群生しています。
恒例の狛犬鑑賞。写実的で整ったお姿ですが、苔むしているのがいいです。
若狭彦神社の社伝によると、若狭彦神と若狭姫神が唐人のような姿で、ここ鵜の瀬に現れたそうです。714年にこの場所に二神を祀るために若狭彦神社が創建されました。翌年には現在の場所に移されましたが、ここは若狭彦神社の元宮として、白石神社と呼ばれているそうです(若狭彦神社 - Wikipedia)。
「良辨和尚生誕之地」の石碑がありました。良弁(ろうべん、りょうべん、689年〜774年)は奈良時代の華厳宗の僧。なんと東大寺の初代別当です。
案内板によると、良弁は若狭の小浜下根来で生まれましたが鷲にさらわれ、奈良のお寺で僧として育てられたそうです。しかし良弁 - Wikipediaを見ると、他に鎌倉生まれ、近江百済氏の出身など、さまざまな説があるようです。
なんだか、若狭で生まれて鷲にさらわれた説は、お水送り・お水取りの儀式成立後に後付けで作られた気がします。
良弁の高弟の実忠(じっちゅう)によって、752年、二月堂の修二会が始められたと言われています。
東大寺に伝わる『二月堂縁起』(制作年不明)によると、実忠が修二会を行っていたところ、若狭の遠敷明神(おにゅうみょうじん)が、遠敷川で魚を取っていて遅刻したため、二月堂のほとりに香水を湧き出させて観音様に奉納すると約束しました。黒白二羽の鵜が岩の中から飛び出したと思うと、そこから水が湧き出したため、それを閼伽井としたそうです(お水取り - 東大寺)。
遠敷明神とは、若狭彦神のことですね。上に書いたように、若狭彦神社は鵜の瀬から現在地に移されましたが、そこが遠敷という地名だったため、遠敷明神とも呼ばれたそうです。
この話に従えば、当初の修二会にはお水取りの儀式はなかったけれど、のちに付け加わったということになるでしょうか。だとしたらそれがいつ頃のことなのか、ぽん太にはわかりません。
東大寺の大切な行事に使われる水が若狭から送られると考えたということは、奈良時代に若さが何らかの意味で特別な地域だったことになります。それが宗教的な考えなのか、鯖街道のように物資が送られてきたという現実的なものなのか、これまたぽん太にはわかりません。
鵜の瀬の一角にある案内柱。小さくて見にくいですが、左の写真には「霊域 鵜の瀬 若狭彦神社 若狭姫神社 飛地境内」と書かれています。ということは鵜の瀬は若狭彦神社の所有地なのでしょうか? 検索してみたけどよくわかりません。
右の写真には、「一宮の夫婦神の御神威が赫々と奈良の都にまで光被するのに伴い、いつしか自然発生的に奈良の二月堂の水の源となり、古来京阪地方より遥々尋ねる人が絶えないのである」と書かれています。この案内板に従えば、若狭彦神の評判が奈良に伝わったことから「自然発生的に」鵜の瀬がお水取りの水源とされ、後付けでいろいろな伝説ができたことになりますね。
若狭彦神社・若狭姫神社
こちらが若狭彦神社です。鵜の瀬の白石神社の場所に最初は建てられましたが、翌年の715年にこの場所に移されたことは、上に書きました。
現在のお水送りの行事には、若狭彦神社はあまり関わっていないようです。明治の神仏分離以前は関わっていたのか、これもネットの情報では分かりませんね。
若狭姫神社です。721年に若狭姫神を分祀して創建されました。若狭彦神社は上社、若狭姫神社は下社と呼ばれています。
この写真からも一端が伺えますが、この二つの神社、案内板がとっても多いのがポイントです。
基本情報
①鵜の瀬、②白石神社、③神宮寺、④若狭彦神社、⑤若狭姫神社
鵜の瀬
住所:福井県小浜市下根来
料金:無料
営業時間:常時見学可(鵜の瀬資料館は9:00〜17:00)
神宮寺
住所:福井県小浜市神宮寺30-4
料金:500円
営業時間:9:00〜16:00