ぽん太のよりみち精神科

たんたんたぬきの精神科医ぽん太のブログです。ココログの「ぽん太のみちくさ精神科」から引っ越してまいりました。以後お見知り置きをお願いいたします。

【仏像】ウクライナ戦争とコロナ禍を背負う・黒田安念寺いも観音


 2022年10月中旬、ぽん太とにゃん子は、滋賀県長浜市にある黒田安念寺を訪れました。ここには10体の破損物が祀られており、通称「いも観音」と呼ばれております。戦火を逃れるために田んぼの中に埋められ、このようなお姿になった仏さまたち。ロシアのウクライナ侵攻で多くの人々が戦争被害に苦しみ、コロナ禍ですっかり世の中が一変した現在、安念寺の仏さまのお姿は心に強く訴えかけてきます。

 この記事では黒田安念寺の仏さまを紹介し、戦争や伝染病との関係についてよりみちします。

琵琶湖の北端にある無住のお寺で、拝観は予約が必要


 黒田安念寺は、琵琶湖の北端、黒田の集落のはずれの山沿いにあります。住職さんが常駐しておらず、地域の人々によって守られておりますから、拝観には電話予約が必要です。まず観音コンシェルジュ(長浜観光協会北部事務所内)に電話をして予約用の電話番号を聞き、そこに電話をして予約をします。案内をしてくれる世話方さんは地域の人たちが当番で務めており、それぞれ仕事や生活をお持ちなので、思いどおりの日時に予約できないこともありますが、感謝の気持ちを忘れずに拝観しましょう。

 境内の入り口には鍵がかけられておりますが、これは後述のように仏さまが盗まれたことがあったからか。予約の時間前に世話方さんが来て、鍵を開け、参拝の準備をして待っていてくださいます。拝観料は300円です。


 安念寺の御堂です。1933年、昭和初期に造られました。


 本堂の向かって右にある神社は牛頭天王社です。村の守り神だそうです。

案内板やパンフレットの写真です

 まず、今回の記事の参考資料となる案内板やパンフレットをアップします。小さいですが、クリックで拡大します。


 御堂の外部にある案内板です。


 御堂の内部にある案内板です。

 お寺のパンフレットです。

戦火から守るために田んぼに埋められた

 さて、以上から安念寺とその仏さまたちの歴史を概観しましょう。

 安念寺は聖武天皇の時代の726年に詳厳法師(しょうげんほうし)によって開基されました。詳厳法師は藤原不比等の一族でしたが、冤罪を着せられて僧になり、この地に仏像を祀って草庵を結びました。法師に従ってやって来た藤原一族が藤田姓を名乗って移り住み、代々このお寺を守って来たと伝えられており、集落10戸のうち9戸が藤田姓だそうです。

 その後、天台宗山門派延暦寺派)に属するようになり、大いに栄えましたが、1571年、織田信長による比叡山焼き討ちの際、多くの末寺とともにこの寺も焼失しました。村人たちは仏像を門前の田んぼの中に埋めて守ったのですが、これにより仏さまたちは大きく損傷することになりました。

 さらに1583年の賤ヶ岳の戦いでも、安念寺は再び焼失。

 仏さまたちが掘り出されたのは、江戸時代中期とも末期とも言われてます。しかし100年以上も土中に埋められていたらもっと腐食が進むはずなので、もっと早く掘り出されたのではないかとぽん太には思えます。

 掘り出された仏像は前を流れる余呉川の水で洗い清められ、仮堂に安置されましたが、そのとき場所を取る台座は取り外されてしまい、また雨漏りのためにさらに傷みが進みました。

 明治の中頃までは、仏像を余呉川で洗う習慣が続いていたそうです。また子供の遊び相手として親しまれ、夏には川に浮袋のように浮かべて子供が遊んだり、農繁期には田んぼの畦に運ばれて子守の役目をするなどしたそうです。このように村人たちから手荒に扱われた親しまれたことで、さらに破損が進んだかもしれません。

 1933年に現在の御堂が総檜造で再建されました。当時は17体の仏像があったそうですが、2000年、2003年に2度にわたって7体の仏像が盗難にあい、現在は10体の仏像だけが祀られております。

戦火から村人を守った「身代わり観音」


 お堂の中に勢揃いした仏さまたち。7体しかないように見えますが、折りたたんだ戸の陰に2体隠れおり、全部で9体。あれ?ひとつ足りませんね。1体は貸し出し中だそうです。

 暗いお堂のなか、強いスポットライトに照らし出されたお姿を見て、ぽん太は舞踏集団・山海塾のパフォーマンスが頭に浮かびました。

 

 それはさておき、こうして戦のせいで激しく損傷した仏さまたちを観ていると、戦争の愚かしさ、悲惨さを改めて感じさせられます。ロシアのウクライナ侵攻、今年こそなんとか終わらないものでしょうか。

 変わり果てたお姿になった仏さまたちは、煌びやかなお姿でわれわれを魅了することもなければ、威厳によってわれわれを畏怖させることもありません。それでもボロボロの身を隠さずさらけ出しながら、子供たちと遊ぶなど出来ることをして、村人に尽くし、親しまれてきたことを思うと、胸が熱くなってきます。

 村人によって田んぼに埋められて戦火から守られた仏さまたちですが、実際は自らを犠牲にして身代わりとり、村人たちを、そして我々を守ってくれたように思えてきます。村人たちが「身がわり観音」と呼んで信仰した気持ちが、ぽん太にもわかる気がしました。

安穏寺の平安時代の仏像群

如来形立像・丙像、菩薩形立像・乙像


 それぞれの仏像を、案内板に従って解説します。

 まずは中央左に安置されている如来形立像(にょらいぎょうりつぞう)・丙像(上の写真向かって左)。毛髪に一段高い盛り上がりがあります。如来像の肉髻(にっけい)ですね。衲衣(のうえ)をまとっているようで、右手を肘のあたりで曲げ、左手は下に下げてますが、肘から先は失われていて、当初どのようなお姿だったのかはわかりません。上からのライトに照らされて、お腹のふくらやみや、お優しい表情が浮き出ています。平安後期の10〜11世紀と考えられるそうです。

 仏像の服装を知りたい方は、たとえば下のサイトをどうぞ。

 写真右は菩薩形立像・乙像。安念寺の本尊と伝えられてきた仏さまです。頭上に高い髷(もとどり)を結い上げております。服装は、裸の上にタスキのような条帛(じょうはく)を付けており、下半身には裳(も)と呼ばれるスカートのような布を巻き、その前には天衣という細長い布がU字型に二段にかかっています。菩薩のお姿ですね。髻にいくつかの穴が残っていることから、元々はそこに小さな顔が取り付けられていて、十一面観音だったと考えられます。また一部に漆が残っており、当初は漆箔像(しっぱくぞう:漆の上に金箔を貼った像)だったと推定されます。平安時代10世紀の作と考えられるそうです。

菩薩形立像・甲像


 向かって一番左に立つ菩薩形像・甲像。お姿から菩薩像であることはもうわかりますね。引き締まったウエスト、量感ある下半身などから、時代は古く平安時代9〜10世紀まで遡るそうです。

如来形立像・乙像


 一番右に安置された如来形立像・乙像。平安時代後期(10〜11世紀)の如来像です。この像にも一部に漆が残っており、漆箔像だったと考えられます。構造なども考慮して、上で紹介した如来形立像・丙像とセットで作られたと思われます。

天部形立像


 向かって左の扉の陰に安置された天部形立像。毘沙門天と伝えられますが、どのような像だったかは不明です。平安時代後期、11世紀の作だそうです。かなり破損が進んでいます。

如来形立像・丁像


 向かって右の扉の陰の、如来形立像・丁像。大日如来と伝えられておりますが、元々のお姿は不明。平安時代後期、11世紀の作。

破損仏・甲像/乙像/丙像


 破損仏・甲像/乙像/丙像。元々は「天部形立像」や「如来形立像・丙像」と同様の三尺仏だったと推定されますが、どういう仏さまだったかは全く不明。平安時代と考えられているそうです。

コロナ禍に通ずる、疱瘡除けの「いも観音」

疱瘡(痘瘡・天然痘)ってどんな病気?

 安念寺の仏さまは「いも観音」とも呼ばれておりますが、これは「いも」「いもがさ」などと呼ばれた疱瘡(ほうそう)という病気から守ってくれる観音さまという意味です。破損した仏像の表面が疱瘡のあとの瘢痕と似ていることや、川で仏像を洗う風習が「芋洗い」と結びつき、疱瘡除けに結びついたと思われます。

 疱瘡は、現在では痘瘡(とうそう)あるいは天然痘と呼ばれる病気です。

 痘瘡・天然痘と聞いても、若い人は「何それ?」と思うかもしれませんが、かつては世界中で流行を繰り返し、多くの人の命を奪ったた恐ろしい感染症です。「かつては」と言うのは、人々の努力の結果、1980年にWHOにより痘瘡ウイルスの根絶宣言が出され、地球上の自然界から痘瘡ウイルスがいなくなりました(実は、アメリカとロシアが研究用に保管していて、ちょっと心配)。人類が感染症を地上から根絶した歴史上初のケースであり、歴史上誇るべき成果です。

 痘瘡の恐ろしさは、いまわれわれを苦しめている新型コロナと比較すると実感できると思います。新コロと同様にウイルス感染症で、感染経路が主に飛沫感染で一部接触感染するところも同じです。感染すると40度を超える発熱が起き、やがて全身に独特の水疱が現れます。致死率は約20%〜50%と高いです(ちなみに新コロの致死率は第1波で7%、現在では0.1%程度に下がってます)。そして幸いに治癒したとしても、皮膚に瘢痕を残したり失明するなどの後遺症を残しました(天然痘 - Wikipedia)。

 感染力も強く、基本再生産数(免疫を持たない集団において、一人の感染者が何人に感染させるか)が5〜7。新型コロナは初期が2.5程度で、オミクロン株は5を超えていると言われてます(https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/001003670.pdf)。「な〜んだ、オミクロンと同じくらいなら大したことないや」と思うかもしれませんが、オミクロン株の場合は、ワクチン接種が行われ既に感染者もいるので、多くの人が免疫を持っている上、感染対策もしっかり行われています。昔は免疫保有者も少なく、原因も悪霊の祟りのようなものと考えられていたので、科学的な感染対策もできてませんでした。疱瘡はひとたび流行すると好き放題に感染を広げました。

 日本に疱瘡が伝わったのは奈良時代と言われておりますが、735年から737年にかけての天平の大流行では、死者数が100〜150万人で、人口の3〜4人にひとりが亡くなったと言われています(天平の疫病大流行 - Wikipedia)。

疱瘡神松尾芭蕉

 疱瘡を引き起こすと考えられていた怨霊のようなものは、やがて擬人化されて疱瘡神(ほうそうしん、ほうそうがみ)と呼ばれるようになり、疱瘡を引き起こさないように祀られました。

 松尾芭蕉に「月に名を包みかねてや疱瘡(いも)の神」という句があります。「奥の細道」の旅で福井から敦賀に行く途中の湯尾峠(ゆのおとうげ)で読んだものですが、「奥の細道」には収録されておらず、「芭蕉翁月一夜十五句」に入れられています(月に名を包みかねてや痘瘡の神)。

 陰暦8月15日の中秋の名月の夜に読まれた句です。現在はお月見ではお団子をお供えしますが、昔はサトイモの新芋を供えたそうで、中秋の名月は別名「芋名月」とも呼ばれます。これと疱瘡(いも)がかかってるんですね。

 湯尾峠にはかつて茶屋があり、孫嫡子(まごちゃくし)と呼ばれる疱瘡除けのお札が売られていて、全国的に有名だったそうです(湯尾峠 - Wikipedia)。現在も小さな祠が祀られているようですね(藤倉山・鍋倉山登山と湯尾峠へ|ビールのホップに酔いしれて on Tumblr)。

 疱瘡神というのは疱瘡を引き起こす神ですから、普段は身を隠しているけど、名月のあまりの素晴らしさに図らずも痘痕(いも)という名を露わにしてしまった、というような意味でしょうか。

いも薬師やいも地蔵、そして芋洗坂(一口坂)

 このように疱瘡神は疱瘡を引き起こす神として、怖れられ、祀られたのですが、一方では疱瘡を防ぎ癒してくれる「いも薬師」が全国各地で祀られ、また疱瘡が入ってこないよう村の入り口に「いも地蔵」や「いもあらい地蔵」が設置されました。

 「いもあらい」(芋洗)という地名は各地にあり、「痘痕(いも)を祓う」と関係があるそうです。池や川の近くにあることが多いようですが、「痘痕を祓う」が「芋を洗う」になったことから水に結び付けられたのか、それとも本当に疱瘡の瘢痕を洗う風習があったからなのか、ぽん太にはよくわかりません。

 ちなみに東京の六本木の芋洗坂の地名の由来に関しては、疱瘡説以外にいろいろな説があるようです(芋洗坂 - Wikipedia)。

 東京には他にも「いもあらいざか」があるのですが、なぜか「一口坂」と書きます。京都にも一口坂があり、どういう相互関係なのか気になりますが、本筋からかなり外れてしまった感じなので、よりみちはまたの機会にしましょう。

 また「いも観音」に関しては、横浜の長昌寺に「芋観世音菩薩」があるようですね(境内のご案内 | 臨済宗建長寺派 富岡山 長昌寺)。そのうち行ってみたいです。

 基本情報

【寺名】天王山 安念寺 
【住所】滋賀県長浜市木之本町黒田2044
【拝観】要電話予約   電話番号は観音コンシェルジュ(長浜観光協会北部事務所内)に電話でお問い合わせください。
【拝観料】300円
【公式サイト】なし
【駐車場】なし (余呉川沿いの道の広いところに停めさせていただきました)
【仏像】
如来形立像 乙像 平安時代 10〜11世紀
如来形立像 丙像 平安時代 10〜11世紀
如来形立像 丁像 平安時代 11世紀
・菩薩形立像 甲像 平安時代 9〜10世紀
・菩薩形立像 乙像 平安時代 10世紀
・天部形立像    平安時代 11世紀
・破損仏 甲像   平安時代
・破損仏 乙像   平安時代
・破損仏 丙像   平安時代