ぽん太のよりみち精神科

たんたんたぬきの精神科医ぽん太のブログです。ココログの「ぽん太のみちくさ精神科」から引っ越してまいりました。以後お見知り置きをお願いいたします。

湖東三山・百済寺の秘仏・御本尊十一面観世音菩薩(植木観音)御開帳(2022年)


 ぽん太は2022年10月、秘仏御本尊の十一面観世音菩薩の御開帳に合わせて、滋賀県百済寺を訪れました。根のついた巨木を直接刻んだものであるため別名「植木観音」と呼ばれ、聖徳太子の命で造られたという言い伝えもあります。かつては一生に一度拝めればラッキーという秘仏だったそうですが、今回拝観できて良かったです。

 このブログでは、滋賀の百済寺秘仏ご本尊と、そのほかの仏像をご紹介いたします。

はじめに

 百済寺は、「くだらでら」ではなく「ひゃくさいじ」と読みます。

 琵琶湖の南東には、湖東三山と呼ばれる西明寺金剛輪寺百済寺があり、紅葉の名所として知られています。ぽん太は百済寺だけ行ったことがなかったので、今回でコンプリートとなりました。

 鈴鹿山脈の西側の樹林に囲まれた山の斜面にあるのですが、名神高速の湖東三山スマートICあるいは八日市ICから車で10分ほどで、アクセスも簡単です。

 入り口の赤門から本堂まで樹林の中のなが〜い石段がありますが、車で駐車場にまで行くと、半分くらいショートカットできます。それでもなかなか「登りがい」があります。

聖徳太子にまで遡る寺の歴史

 寺伝によれば、百済寺は606年(推古天皇14年)に、聖徳太子によって建立されたと言われています。聖徳太子が根のついたままの杉の大木に十一面観音を刻ませ、これを囲むようにお堂を造らせたのが、百済寺の始まりだそうです。

 しかし百済寺が初めて史料に現れるのは1089年であり、創建の言い伝えが史実かどうかは疑問が残るようです(百済寺#歴史 - Wikipedia)。創建の言い伝えが史実かどうかはっきりとしないのは「よくあること」ですけど。下で書くように、現在の御本尊である植木観音も、重要文化財指定時の文化庁の調査では奈良時代の作と考えられているようです。

 平安時代には比叡山延暦寺の勢力下に入り、天台宗となりました。その後中世にかけて発展し、多くの伽藍を持つに至りました。

 ところが1498年(明応7年)に火災がおき、本堂とその周辺が焼失。多くの仏像も失われました。さらに直後の1503年(文亀3年)に戦火に巻き込まれて、堂宇はほとんど焼失してしまいました。

 それでも寺勢は回復していったのですが、1573年(元亀4年)、今度は織田信長の焼き討ちにより再び全焼。しかし本尊の植木観音といくつかの仏像は、奥の院に避難させて難を逃れました。

 江戸時代になって復興が行われ、1650年(慶安3年)に本堂・仁王門・赤門が完成し、現在に至ります。

御本尊ほかの仏像が祀られる重文の本堂


 樹林に囲まれた長い階段を登っていくと、ようやく本堂が見えてきます。階段が本堂の正面に繋がっていないのがちょっと不思議ですね。


 上に書いたように江戸初期の1650年(慶安3年)の再建ですが、国の重要文化財に指定されております。唐破風(からはふ:屋根のぐにゃっと曲がった部分)のついた美しい建物です。

 この本堂の内部に、秘仏御本尊ほかの仏さまが安置されております。

本堂の仏像

内陣全体


 内部はとうぜん写真撮影不可。いろいろ検索したのですがどうしても写真が見つかりません。やっとのことで、上の動画の0:34あたりから内陣が映っているのを見つけました。

 動画中央奥の金色の仏像は、「十一面観音菩薩立像(植木観音)」とキャプションが付けられてますが間違いで、御前立(おまえだち:秘仏の代わりに前に置かれている仏像)です。秘仏の植木観音は、その背後の厨子のなかに納められています。ぽん太が訪れた時は、厨子の扉が開かれており、御前立は向かって左側に捌けられてました。厨子の手前右に聖観音坐像、手前左に如意輪観音半跏思惟像があります。また右奥に不動明王、左奥に毘沙門天像、さらに左手前に護法童子が祀られておりました。右の小さい厨子には聖徳太子像。ひだりの厨子阿弥陀如来が納められているようなのですが、なぜかぽん太は見た記憶がなく、見落としたのか、厨子の扉が閉じられていたのか。

秘仏 御本尊十一面観世音菩薩立像(植木観音)

お写真

 秘仏というだけに、こちらもなかなかお写真がありません。下のサイトに何枚か写真があります。違う仏像の写真もあるのでお間違えのないように。ひとつだけ写真への直リンを載せておきます(百済寺・十一面観音像|観仏日々帖)。このサイト、百済寺の御本尊に関してとても詳しい情報が載せられているので、興味のある方はご一読を。

いつ御開帳されるの?

 以前は御開帳は住職一代につき一度とか、半世紀に1度とか言われ(ソースによって異なるようです)、一生に一度拝観できるかどうかだったそうです。近年では2006年に天台宗開宗1200年を記念して湖東三山の秘仏御開帳が行われ、百済寺の十一面観音も50年以上ぶりに御開帳されました。また2014年には「湖東三山スマートIC」開通記念として、再び湖東三山そろって御開帳が行われました。さらに今回(2022年)、2021年に百済寺秘仏御本尊が重要文化財に指定されたこと、2022年が「聖徳太子千四百年御遠忌」(ごおんき:亡くなった年から50年ごと、100年ごとなどの年)にあたることから、御開帳が行われることになりました。

 ここのところ、こまめに御開帳が行われているようでうす。でも今後はどうなるかわかりませんので、油断せぬように。

ご本尊のいわれ

 秘仏ご本尊のいわれに関しては、百済寺の公式サイト(百済寺について – 天台宗湖東三山釈迦山百済寺公式サイト)に次のように書かれています。

 八日市市の太郎坊山の麓に宿をとったとき、夕方に東の山中が光るのをご覧になりました。不思議に思った聖徳太子が山中に分け入ってみると、幹の上半分が切り取られた杉の大木があり、たくさんの山猿が果物をお供えして礼拝しておりました。太子はこの大木が聖木であると感じ、地面に生えたまま観世音菩薩を刻むよう指示されました。これが秘仏ご本尊の「植木観音」で、百済寺の始まりとなったそうです。

 ところが同じ百済寺の公式サイトでも、こちらのページ(寺宝・文化財 – 天台宗湖東三山釈迦山百済寺公式サイト)に書かれている内容は微妙に異なります。

 聖徳太子百済博士の慧慈(高句麗僧)の案内でこの山中に分け入って来られ、杉の大木の上半分が、百済国・龍雲寺の御本尊十一面観音さま用に百済まで運び出された事を知り、下半分の根のついたままの巨木に十一面観音さまを刻まれた。

 どちらが正しいのかよくわかりませんが、いずれにせよ、ご本尊が造られたのは聖徳太子(574〜622年?)存命中の飛鳥時代ということになります。

 しかし、文化審議会答申(重要文化財(美術工芸品)の指定)について II.解説 2021.10.15(pdf)を見ると、1ページ目に書かれている御本尊の重文指定理由は次のとおりです。

 湖東の古刹として知られる百済寺の本堂(重要文化財)厨子内に安置される秘仏本尊像。扁平な正面観は、画像の立体化に慣れていない半専門的な造仏僧などの手になるこ とを思わせるが、胸幅を広くとり胴部を締めた体型や、肉付けの大らかな起伏と自然な 動きのある後ろ姿に奈良時代風がうかがえ、製作年代は8世紀後半に遡るとみられる。 当代の在地社会の造像を考えるうえで見逃し難い作例と評価される。表面漆箔がよく残 る保存状態の良好さも賞される。

(奈良時代)

 学術的には奈良時代後半の作とされているようですねぇ……。しかし「制作年代は8世紀後半に遡ると見られる」と書かれているので、そのうちもっと「遡る」可能性もあるかもしれません。

 上に書いたように百済寺は1573年に信長の焼き討ちで全てが灰になりましたが、このご本尊は8km離れた奥の院に避難して、幸運にも焼失を免れたそうです。

ぽん太の感想

 前置きのうんちくが長くなりましたが、本像を見てのぽん太の感想です。まず像高2.5mという大きさに圧倒されます。厨子に入っているので足元は見えず、根のついた木に彫ってあるのかどうかはよくわかりません。体は平板で、肩を張り、気をつけのような姿勢で、柔らかな動きはありません。お顔が小さいので、野球の大谷みたいな体型です。本格的な仏師の作ではないように思われます。立木に刻まれたというのは、元々その木が御神木か何かだったのでしょうか。古風で素朴な印象の仏さまで、なんか癒されました。

聖観音坐像

 お写真はこちら(聖観音坐像|寺宝|百済寺公式サイト)。明応6年の大火の翌年(明応8年、1499年)、室町時代に造られました。1573年の信長焼き討ちの際には、ご本尊とともに避難して焼失を免れたそうです。室町らしい装飾的で美しい仏像。お顔もなかなかの美形で、後補かもしれませんが宝冠などの飾りも繊細で見事です。

 左手に蓮の蕾を持ち、右手で花びらを一輪開いてます。蓮の下部(花瓶?)がくねっと曲がってるのが不思議で、後付けで持物を作ったとき、位置が合わなくなってしまったのか?。

如意輪観音半跏思惟像

 お写真はこちら(如意輪観音半跏思惟像|寺宝|百済寺)。こちらも室町時代の明応8年(1499年)の作。お姿も美しく、聖観音様とそっくりで、セットでしょうか。

 ふつう如意輪観音というと、腕が六本で片膝を立て座るちょっと神秘的なお姿が定型ですが、この像は左膝を下に垂らし、左の手のひらを床につけているのがちょっと珍しいです。ゆったりとした姿勢ですね。ちょっと手足が短く太めで、ぽっちゃり体型が可愛いです。装飾品も煌びやかですが、衣に残る截金(きりがね:金による細かい模様)も見事。素晴らしいです。

 ご本尊が十一面観音で、その両側に聖観音如意輪観音があり、なんでこんなに観音様ばっかりなの?と思うかもしれませんが、百済寺聖徳太子ゆかりのお寺だからかもしれません。

 聖徳太子は、少なくとも平安時代には、観音菩薩の化身・生まれ変わりとして信仰されるようになりました。大阪の四天王寺の本尊が、まさにその観音菩薩であるとして信仰を集めておりましたが、現在は残っておりません。

 この四天王寺観音菩薩を写しとったと言われているのが奈良の法隆寺如意輪観音菩薩半跏像で、これが太子信仰と関連した現存最古の観音菩薩です。お写真はこちらです(如意輪観音菩薩半跏像・法隆寺|東京国立博物館)。二臂(二本腕)で、右膝は立ててませんが、左脚を下に垂らしてますね。百済寺如意輪観音もこの伝統的なお姿を意識してるのでしょう。

御前立 十一面観音

 像高1.3mぐらいで、舟形光背を持ち、全体に金箔を貼られております。お写真は例えばこちら(百済寺ご本尊お前立ち|滋賀彦根新聞)です。ふっくらしたお顔、お姿も装飾的・様式的で美しいです。これも室町の作でしょうか?

聖徳太子孝養像

 向かって右に安置されている、色鮮やかなで童子のようなお顔、まるで人形のような聖徳太子像です。

 聖徳太子像もいくつかの定型がありますが、これはそのうちの孝養像(こうようぞう、きょうようぞう)と呼ばれるもので、用明天皇の病気平癒を祈って仏に香を捧げる太子16歳のお姿です。

 百済寺公式サイトによると、元々は徳川家光の乳母・春日局が生前に大奥で拝んでいた像で、1650年の本堂再建の落慶記念に将軍から奉納されたと伝えられているそうです。

不動明王

 ん〜なんかよく覚えてません。ごめんなさい。

毘沙門天

 少年のようなお顔で、ちょっとイタズラっぽくもみえる毘沙門天です。

 ちなみに、不動明王毘沙門天を脇侍とする形式は、元になる経典はなく、比叡山延暦寺の横川中堂がその始まりとされます(不動明王毘沙門天は現存せず)。天台宗を中心に広がり、中尊は横川中道の聖観音に留まらず、薬師、阿弥陀弥勒、釈迦、地蔵、文殊、弁財天など様々だそうです。

護法童子

 向かって左の厨子に護法童子があったとぽん太のメモに書かれておりますが、記憶なし。

阿弥陀如来秘仏如意輪観音は見れず

 他に百済寺本堂には鎌倉時代阿弥陀如来坐像がありますが、これはメモにもなければ見た記憶もないので今回は非公開だったかも。

 また、飛鳥・白鳳時代の30cmほどの如意輪観音の金銅仏がありますが(如意輪観音|寺宝|百済寺)、こちらは全く公開されていない秘仏。これも写真を見ると法隆寺如意輪観音と似てますね。

基本情報

【寺名】釈迦山 百済寺(ひゃくさいじ)  天台宗
【訪問】2022年10月中旬
【住所】滋賀県東近江市百済寺町323 
【拝観】 無休
【拝観料】大人600円 、中学生300円、小学生200円  
【公式サイト】・http://www.hyakusaiji.jp
【駐車場】220台無料
【仏像】◎重文 ●県指定 ◯市指定
秘仏 御本尊十一面観世音菩薩(植木観音) 249.0cm 奈良時代
聖観音坐像 室町時代
如意輪観音半跏思惟像 室町時代
・御前立 十一面観音
聖徳太子孝養像
毘沙門天
・護法童子