ぽん太のよりみち精神科

たんたんたぬきの精神科医ぽん太のブログです。ココログの「ぽん太のみちくさ精神科」から引っ越してまいりました。以後お見知り置きをお願いいたします。

【2024年・令和6年版】日野七福神巡りガイド

 お正月はどこに出かけても混んでるし、だからといってずっと家で過ごすのも……。そんな方におすすめなのが、ウォーキングにもなり、初詣のご利益もある日野七福神巡りです。

 ぽん太は2023年(令和5年)の正月、コロナでどこにも行けないので時間を持て余し、日野七福神めぐりにでかけました。その経験を皆様にお伝えいたします。

準備編

日野七福神巡りとは

 日野七福神巡りとは、毎年1月1日から1月7日まで、日野市にある七福神を祀る7つのお寺を巡って、開運を祈願するというイベントです。それぞれのお寺の御開帳は、午前9時から午後4時までとなります。

 御朱印を集めて記念品をいただけます。最初のお寺で300円で色紙を購入し、それぞれのお寺で御朱印(各300円)を7つ集めると、最後のお寺で受け取ることができます。

 7つのお寺と、祀られている七福神は以下の通りです。

 福禄寿(ふくろくじゅ) 石田寺(せきでんじ)
 毘沙門天(びしゃもんてん) 安養寺(あんようじ)
 寿老尊(じゅろうそん) 延命寺(えんめいじ)
 子寶大黒天(こだからだいこくてん) 善生寺(ぜんしょうじ)
 恵比寿天(えびすてん) 真照寺(しんしょうじ)
 弁財天(べんざいてん) 高幡不動金剛寺(たかはたふどうこんごうじ)
 布袋尊(ほていそん) 宗印寺(そういんじ)

 まわる順番は決まっておらず、また1日で巡る必要もありません。

参考になるサイト、マップ・パンフレット

 下記の日野市観光協会のサイトが、見所が詳しく書かれていてマップもあるので、印刷して持ってくか、スマホで見ながら行くといいでしょう。

 ただ高幡不動駅のところで「京王線のくぐる地下道を抜ける」と書いてありますが、現在は階段(エスカレーター)を登って改札前を通り過ぎる形になっております。

 また、駅などで配っている下記のパンフレットも見やすいので、スタート地点の百草園駅でゲットしておきましょう。

所要時間

 ぽん太はゆっくりと11時過ぎに百草園駅から歩き始め、最後の宗印寺に着いた頃は午後4時を回ってしまいました。御朱印の窓口は閉まってましたが、参拝はすることができました。

 ぽん太はのんびり回って、途中高幡不動尊の参道でお蕎麦をいただいて、5時間ちょっとかかったことになります。御朱印をもらうともう少し時間がかかるでしょうし、体力や、参拝にかける時間によって個人差があるかと思うので、余裕を持ったご計画をお立てください。

 1日で回れなくても、期間中に何回かに分けてお参りすることもできます。

さあ七福神巡りにでかけよう!

①恵比寿天:真照寺

 山門を入って右手のお堂の中に安置されております。新そうですがプロポーションも良く、福々しくて、色彩や細かい装飾も見事です。右手に結ばれた七色の糸を介して、恵比寿様と握手することができます。

 ただ仏教の場合は、青・黄・赤・白・黒の五色の糸を使うのが普通で、七色というのはぽん太は初めて見ました。

 真照寺のご本尊は、元禄9年(1696年)の作。真照寺は1921年(大正10年)に火災にあって、建物や仏像などほとんどが焼失しましたが、ご本尊は難を逃れて現在に至ってます。

 本堂のなかの仏さまです。宝冠をかぶり智拳印を結んでいるので大日如来さまですね。この像が真照寺のご本尊なのか、それとも御前立(おまえだち、秘仏の代わりに通常祀ってある像)なのか、ぽん太にはわかりません。

 本堂の向かって左にある観音堂。内部には千手観音が祀られているそうです。

 なにげに建っておりますが、医者の端くれのぽん太には聞き逃すことができない歴史があります。寺の公式サイトによると、観音堂は元は山門左手の山腹にありましたが、周辺の村に伝染病が流行した際に病棟として使用されていたため、明治30年代に焼却処分されたそうです。

 明治時代の重大な流行病といえばコレラ天然痘が思い浮かびます。伝染症であることはわかっていましたから、隔離目的に観音堂が使われたのかもしれません。

 明治30年(1897年)は、「伝染病予防法」が施行された年です(伝染病予防法 - Wikipedia)。コレラ天然痘を含む10種の急性伝染病の取り扱いを定めたもので、市町村は伝染病院あるいは隔離病舎を開設する義務を負い、また病毒伝播の疑いのある物件の使用禁止などが定められました。こうした流れの中で伝染病院が作られ、不要となった観音堂が焼却処分されたのかもしれません。

 観音堂に古くから祀られ信仰を集めてきた千手観音は、上に書いた大正10年の火事で焼失。その翌年に作り直されたものが、現代まで伝わっているそうです。また観音堂の建物は、昭和61年(1986年)に再建されたものです。

 千手観音の御開帳は12年に1度、卯年だそうです……って今年じゃん。4月1日から30日まで、「武相48観音霊場ご開扉」で御開帳されるようです。

 真照近くの川崎街道沿いに、なんだか素敵な建物が。真照寺が経営している「日野わかくさ幼稚園」だそうです。

 真照寺は江戸末期から寺子屋を開いておりましたが、明治時代になって寺の境内に小学校が造られました。小学校は変転のすえ昭和41年に廃校となりましたが、流れを受けて昭和43年に日野わかくさ幼稚園が開園しました。

 そうだったのか。よくお寺に幼稚園があるのは知ってましたが、あれって「現代の寺子屋」だったのか。ぽん太は初めて気が付きました。

 設計は彦根アンドレアさん。素敵な建物ですね。こんな幼稚園に通えたら嬉しいです。

落川

 百草園駅の北の商店街から北西に向かう道は落川道と呼ばれ、石田村や日野宿に至る古くからある道だそうです。静かな住宅街をゆるゆると曲がりながら進む気持ち良い道です。

 府中市四谷体育館の前にも「落川道」の碑がありますが、先ほどの道がここにつながっているとは思えないので、名前は同じだけど別の道でしょうね。

都立日野高校

 モノレールが走る新井橋で浅川を渡って、川沿いに少し東に進んだところに、都立日野高校があります。

 忌野清志郎の母校で同学年に三浦友和が在籍していたという、ご老人なら思わず目を見張るスポットです。若い人には、アンジャッシュのお二人の方がお馴染みでしょうか。

 上にリンクした日野市観光協会の日野七福神巡りのサイトには神田正輝の名前も上がってますが、彼は神奈川県の日本大学高校だと思います。ぜひご訂正を。

 清志郎が通ったという旧校舎は、残念ながら2021年に老朽化のため解体。ぽん太が訪れた2023年正月は、上の写真のように手前にプレハブの仮校舎、奥に新校舎が建設中という状態でした。8月に新校舎が竣工し、2学期からは新しい校舎で授業が行われているようです。

②福禄寿:石田寺

 ガラスに反射しまくって見にくいですが、写真の中央あたりに福禄寿の細長い顔が写ってます。場所は石田寺(せきでんじ)です。

 真照寺の恵比寿天と作風が似ており、同時期に同じところで造られたようにぽん太には思えます。

 

 境内にある北向観音堂です。昭和51年に復元再建されたもの。

 寺伝によると、1554年(天文13年)に多摩川に大洪水が起きたとき、一体の観音像が石田に流れ着いたそうです。村人が古いお寺の廃寺跡に観音堂を建てて祀っていたのが元になり、1593年(文禄2年)に慶心という僧が堂宇を建立し、石田寺と名付けたそうです。

 堂の中には高さ1mほどの細長い厨子がありますが、扉は固く閉ざされております。中には洪水で流れ着いたという十一面観音様がおられるのか!? 公式サイトにちっちゃな写真があるけどよく見えません。

 毎年10月17日の北向十一面観音まつりの時に開扉されるようです。

 石田村というと新撰組土方歳三が生まれたところとして有名ですが、石田寺に土方歳三のお墓がありました。

 「土方歳三の墓なんて、どうせあちこちにあるんじゃない」などとぽん太は穿った見方をしてたのですが、調べてみると「墓」は日本でここだけ、本家本元のようです。

 ただしここには遺骨は眠っておらず、亡骸は函館のどこかに埋葬されたと言われていますが、どこかはわからないそうです(土方歳三 - Wikipedia)。

 余談ですが、境内の一角にある小さなお稲荷さんの狛狐がとっても見事だったので、写真を載せておきます。赤ちゃんギツネを2匹両手で守ってますが、リアルで可愛らしいですね。

 風習なのか悪戯なのか、狐たちの頭の上にコインが乗ってるのも面白いです。

土方歳三生家跡

 土方歳三生家跡です。

 日野市教育委員会設置の案内板によると、土方歳三が生まれた場所はここではなく、石田寺の北側にありました。ところが土方が12歳の時に起きた大洪水で被害を受け、実家はこの地に移り、母屋や土蔵も移築されました。以後1863年に浪士組の一員として京都に行くまで、土方はこの家で暮らしたそうです。

 長く子孫によって「土方歳三資料館」として遺品が公開されて来ましたが、個人の頑張りでは運営が限界ということで、2022年10月末から長期休館しております。とっても残念ですが仕方ありません。再開を心からお待ちしております。

毘沙門天:安養寺

 安養寺の毘沙門天は、仏像としては日野七福神のなかで別格で、藤原時代(平安時代後期)に作られた古いもので、日野市指定文化財です。檜材の寄木造で、像高は132cm。

 勇ましい毘沙門天ですが、穏やかでおっとりした雰囲気はいかにも藤原時代。獅子噛(ししかみ:ベルトのバックル部分)の彫刻も細かいです。

 しかし腰のひねりはすごいですね。『がきデカ』のこまわりくんレベルです(誰も知らんか…)。ちょっとカマクラ風が入ってるかも。

 上半身はほっそりしていますが、下半身は太めで力強いです。お顔は若々しく、ちょっと憂いを含んだ表情です。素晴らしい仏さまです。

 この像は普段は本堂に祀られていますが、日野七福神巡りの期間は薬師堂で公開されます。

 薬師堂に元々祀られてる、貞享年間(1684〜1688)の薬師如来(檜造、寄木造、漆塗り)と、日光・月光菩薩像も拝観できます(お写真はこちら→https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/kumacare.jpg)。

 薬師如来は漆塗りで真っ黒い仏さま。江戸時代っぽく、ちょっとグロテスクで圧迫感があります。日光月光菩薩は素地仕上げでかなり新そうで、近代になってからのものでしょうか。

 安養寺には他にも藤原時代の本尊阿弥陀如来坐像(都指定)、享保年間の観音菩薩勢至菩薩鎌倉時代大日如来立像や阿弥陀如来立像などがあり(画像→https://www.anyoji.com/shobutu/index.html)、いつ公開されるのかわかりませんが、機会があったら拝観したいです。

高幡不動の蕎麦

 高幡不動に行ったら、せっかくなので参道でお蕎麦をいただきましょう。蕎麦屋マップみたいなものがあればいいのですが、検索しても見当たりません。ネットなどで検索したり、実際に参道を歩いたりしていい店を探しましょう。

 ぽん太が行った時は、どこ店も長蛇の列だったので、その瞬間に列がいちばん短かった千手庵に入りました。

 お蕎麦は普通はせいろで味わうぽん太ですが、寒かったので暖かいきつねそばを注文。冷えた体が温まり、七福神めぐり後半に臨む元気が湧いてきました。

④弁財天:高幡不動尊金剛寺

 次は高幡不動です。これまでの静かな雰囲気とは異なり、初詣客ですんごい人出です。せっかくですから不動堂もお参りしたいところですが、長い行列ができていて待ち時間40分の案内が……。ぽん太は不動堂は諦めて、七福神巡りに徹して弁財天を目指すことにしました。

 境内の案内図は上のサイトをご覧ください。

 総門を入って左の方に赤い橋があり、その先に弁天堂があります。

 人混みをかき分けてなんとか弁天堂に到着。格子の間からお堂のなかを覗くと、あれれ、弁天様がは厨子に入っていて見えません。七福神巡りのパンフレットには写真が出てるのに、実物が拝観できんのかいな。きれいなお姿なのに。

 ちょっと納得できない気もしましたが、境内の大混雑からお寺の「ソレどころじゃナイ」感が伝わってくるので、参拝を済ませて早々に人混みを後にしました。

 縁があったらご本尊と共に拝観したいです。

⑤寿老尊:延命寺

 延命寺に到着。正面の開いている入り口に誘われて中に入ると、小さな寿老尊の銅像が。曲がりくねった杖を持ち、体を捻って天を仰ぐ不思議な像です。ありがたや、ありがたや。撮影禁止なので写真はありません。

 参拝を終えて外へ出ると、庭の祠にも大きな寿老尊が。なんかロシア正教の司祭みたいな不思議な像でした。お参りの人で混んでたので「撮影はいいや」と立ち去ったのですが、後でパンフレットを見たらこっちが七福神巡りのようです。

 パンフレットの小さい写真をアップしておきます。

 延命寺の本尊は延命地蔵菩薩ですが、秘仏となっており、住職一代につき一度しか御開帳しないそうです。

⑥子宝大黒天:善生寺

 祠のなかに大黒様がおりました。

 お堂の鴨居の上に、かわいいネズミの彫刻があります。ネズミは大黒天の使いとされています。

 善生寺は境内がとても広く、奥の小高いところにはなんと大仏もあります。時間と体力がある方は、お参りしましょう。

布袋尊:宗印寺

 七福神巡りも残すところひとつ。最後は宗印禅寺です。ぽん太がここに着いた時は、制限時間の16時を超えてしまいましたが、御朱印集めはしなかったので、参拝だけいたしました。御朱印を集めている方は時間にご注意を。

 目指す布袋尊は、門を入って右手の小高いところにある東屋に祀られております。

 こちらです。連行されてるんじゃありません。五色の糸ですね。

 境内には平山季重(ひらやま すえしげ)のお墓があります。お墓といっても祀るためのもので、遺骨は入っておりません。平山季重は平安末期から鎌倉初期の武将で、源義経に従って、富士川の戦いや一の谷の戦い、壇ノ浦の戦いなどで勇猛果敢に戦ったことで知られています。

 地蔵堂のなかには千躰地蔵が祀られております。中央の厨子の中には木造地蔵菩薩坐像が祀られていると思われ、併せて日野市指定文化財に登録されています。日奉(ひまつり)氏から出た平山季重が地蔵堂を草創したという言い伝えから、日奉地蔵と呼ばれております。

 さて、日野七福神巡りもこれにて終了。山門から見下ろす街並みには夕陽が当たってます。

 お疲れ様でした、本年も良い年でありますように。