ぽん太のよりみち精神科

たんたんたぬきの精神科医ぽん太のブログです。ココログの「ぽん太のみちくさ精神科」から引っ越してまいりました。以後お見知り置きをお願いいたします。

オシポワの演技力と踊りが進化「ロミオとジュリエット」英国ロイヤル・バレエ団2023年日本公演

ますます演技力を高め、英国ロイヤル風の優雅な踊りを身につけたオシポワ

 英国ロイヤル・バレエ団2023年日本公演のもう一つの演目は「ロミオとジュリエット」。ぽん太とにゃん子はもちろんオシポワがジュリエットの日を選びました。

 先日の「田園の出来事」ではホントの恋も知らぬまま女の盛りを過ぎてしまったマダムを見事に演じたオシポワでしたが、今回は、原作では14歳という設定のジュリエット。登場シーンの乳母とのキャピキャピから、ラストの墓場で命を絶つところまで、これまた圧巻の演技でした。

 オシポワの「ロミジュリ」は前にも見たけど、さらに一段と演技力が高まった気がします。さらにいつのまにか英国ロイヤル風のどこにも力を入れてないようなフワリフワリとした踊りも身につけてました。

 そういえばオシポワっていま何歳なんだろう。調べてみたら1986年5月生まれだから、37歳か。いつの間にか歳食ってるんですね。ボリショイの来日公演の「ドンキ」で最初のジャンプの大きさに驚いて、ぽん太が椅子からずれ落ちそうになったのが2008年だから、あれから15年経ってるんだもんね。いつまでも身体能力だけを売りにするわけにもいかないから、踊りの幅を広げてるんでしょうか。

マクミラン振付のラストはバルコニーシーンの再現か

 今回マクミラン振付の「ロミジュリ」を見て、初めて気がついたことが。

 ラストで短剣を自分の胸に突き立てたジュリエットは、なぜかエッチラオッチラと墓所の寝台の上に登り、そこから、床の上に倒れているロミオに手を伸ばして触れようとします。なんか不自然な気がしてたんですが、これってバルコニーシーンのラストで、バルコニーの上のジュリエットと地面にいるロミオが手を伸ばし合って触れあおうとするシーンの再現なんですね。

 バルコニーでは、ロミオとジュリエットの手は触れ合えたんだっけ? よく覚えてません。ネット上の動画をあさってみたけど、暗くてよくわかりません。

 次に英国ロイヤルの「ロミジュリ」を観るときは、気をつけて見たいと思います。

公演情報

英国ロイヤル・バレエ団2023年日本公演
ロミオとジュリエット

2023年6月30日
東京文化会館
概要/英国ロイヤル・バレエ団/2023/NBS公演一覧/NBS日本舞台芸術振興会

振付:ケネス・マクミラン
音楽:セルゲイ・プロコフィエフ(ブージー・アンド・ホークス音楽出版社
美術・衣裳:ニコラス・ジョージアディス
照明:ジョン・B. リード
ステージング:クリストファー・サンダース

ジュリエット:ナターリヤ・オシポワ
ロミオ:リース・クラーク
マキューシオ:アクリ瑠嘉
ティボルト:ギャリー・エイヴィス
ベンヴォーリオ:ジョセフ・シセンズ
パリス:ルーカス・ビヨルンボー・ブレンツロッド
キャピュレット公:クリストファー・サンダース
キャピュレット夫人:エリザベス・マクゴリアン
エスカラス(ヴェローナ大公):トーマス・モック
ロザライン:クリスティーナ・アレスティス
乳母:クリステン・マクナリ―
僧ロレンス:ベネット・ガートサイド
モンタギュー公:ベネット・ガートサイド
モンタギュー夫人:アネット・ブヴォリ
ジュリエットの友人:ミーシャ・ブラッドベリ、アシュリー・ディーン、ルティシア・ディアス、桂 千理、佐々木万璃子、シャーロット・トンキンソン
3人の娼婦:ナディア・ムローヴァ・バーレー、ジーナ・ストルム・イェンセン、ハンナ・グレネル
マンドリン・ダンス:チョン・ジュンヒョク、レオ・ディクソン、デヴィッド・ドネリー、 ベンジャミン・エラ、ハリソン・リー、中尾太亮
舞踏会の客、街人たち:英国ロイヤル・バレエ団

指揮者: クーン・ケッセルズ
オーケストラ: 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

オシポワが演技派に転向?〈ロイヤル・セレブレーション〉英国ロイヤル・バレエ団2023年日本公演

 英国ロイヤル・バレエ団がコロナ禍を経て4年ぶりに来日。あゝ、観れるだけで嬉しい限りですが、パフォーマンスも素晴らしかったです。客席に吉田都ちゃんの姿があり、英国ロイヤル関係者と久々の再会を喜んでいたのが、印象的でした。

 また肉体派(?)のオシポワが素晴らしい演技力を見せてくれたのには驚きました。

 このブログは、バレエを見るのが好きなだけのぽん太の個人的感想です。

感想

FOR FOUR

 2006年に初演された作品ですが、こんかいが日本初演。4人の男性ダンサーが、シューベルト弦楽四重奏「死と乙女」に乗せて、ときには競い合い、ときには一つになりながら、ダンスを繰り広げます。テクニック的にはクラシックですが、現代的で洗練された振り付け。

 振付家のクリストファー・ウィールドンは有名な人のようですが、聞いたことない! エゴサーチしてみたら、以前に「不思議の国のアリス」(プロジェクターを使って演出のやつですね)や、「雨の後に」を英国ロイヤルで観てました。

プリマ

 次の「プリマ」も日本初演だそうで、どんな作品かと思っていたら、女性4人による踊り。「FOR FOUR」を意識して、同時に上演するように作られた感じです。衣装はポップでしたが、とても高難度の踊りに見えました。振付はヴァレンティノ・ズケッティ。英国ロイヤルのファースト・ソリストで(https://www.roh.org.uk/people/valentino-zucchetti)、ぽん太も以前に踊ったのを観ているようです(記憶にないけど)。

田園の出来事

 オシポワが自分と同じ名前のナターリヤを踊りました。上流階級の一家に若い家庭教師がやってきたことで、一家に波紋が生じます。女の盛りを過ぎた妻のナターリヤは生まれて初めて恋の炎を燃え上がらせますが、やがて悲しい別れを迎えます。ストーリー的には昼メロですが、アシュトンの振り付けによる舞台は洗練された芸術に仕上がってます。ぽん太もとうに忘れていた昔の恋心をちょっとだけ思い出し、胸が切なくなりました。

 オシポワが自らの驚異的身体能力を封印して、素晴らしい演技でナターリヤの心情を表現。オシポワがこんな演技力を身につけたら鬼に金棒です。時々衣装の隙間からすごい筋肉が見えたけど。

 原作はツルゲーネフの「村のひと月」とのこと。邦訳は、昭和初期に米川正夫が訳したものが、日本図書センターから1996年に復刻された『ツルゲーネフ全集10』に収録されているようですが、amazonでは取り扱いがありません。近くの図書館にあったので、気が向いたら読んでみます。

 音楽はショパンの曲を編曲して使っているようですが、一つひとつがどれなのかはぽん太にはよくわかりませんでした。

「ジュエルズ」より"ダイヤモンド" [全編]

 アシュトンの切ないドラマの後は、バランシンの華麗なパフォーマンスで締めくくり。今回は”ダイヤモンド”全編の上演でした。

 ヌニェスとクラークの豪華なコンビと、迫力ある群舞。英国ロイヤルのバランシンはいつ観ても素晴らしいですね。

公演情報

英国ロイヤル・バレエ団2023年日本公演
〈ロイヤル・セレブレーション〉

2023年6月24日マチネ
東京文化会館

公式サイト・https://www.nbs.or.jp/stages/2023/royalballet/

演目とキャスト

「FOR FOUR」 (日本初演

  振付: クリストファー・ウィールドン
  音楽: フランツ・シューベルト
  衣裳デザイン: ジャン=マルク・ピュイッソン
  照明デザイン: サイモン・ベニソン
  ステージング: クリストファー・サンダース

アクリ瑠嘉、マシュー・ボール、ジェイムズ・ヘイ、ワディム・ムンタギロフ

四重奏:ヴァスコ・ヴァッシレフ、戸澤哲夫、臼木麻弥、長明康郎

「プリマ」(日本初演

  振付: ヴァレンティノ・ズケッティ
  音楽: カミーユサン=サーンス
  衣裳デザイン: ロクサンダ・イリンチック
  照明デザイン: サイモン・ベニソン
  ステージング: ヴァレンティノ・ズケッティ、ギャリー・エイヴィス

フランチェスカ・ヘイワード、金子扶生、マヤラ・マグリ、ヤスミン・ナグディ

ヴァイオリン: ヴァスコ・ヴァッシレフ

「田園の出来事」

  振付:フレデリック・アシュトン
  音楽:フレデリック・ショパン
  編曲:ジョン・ランチベリー
  美術・衣裳:ジュリア・トレヴェリアン・オーマン
  照明デザイン:ウィリアム・バンディ
  照明デザイン:ジョン・チャールトン
  ステージング:クリストファー・サンダース

ナターリヤ : ナターリヤ・オシポワ 
イスラーエフ : クリストファー・サンダース 
コーリャ(息子) : リアム・ボスウェル
ヴェーラ(養女) : イザベラ・ガスパリーニ 
ラキーチン : ギャリー・エイヴィス
カーチャ(家政婦) : ルティシア・ディアス 
マトヴェイ(従僕) : ハリソン・リー
ベリヤエフ(家庭教師) : ウィリアム・ブレイスウェル

ピアノ:ケイト・シップウェイ

「ジュエルズ」より"ダイヤモンド" [全編]

  振付: ジョージ・バランシン 
  音楽: ピョートル・チャイコフスキー
  衣裳デザイン: カリンスカ
  装置デザイン: ジャン=マルク・ピュイッソン
  照明: ジェニファー・ティプトン
  ステージング: クリストファー・サンダース、サミラ・サイディ

マリアネラ・ヌニェス、リース・クラーク
アネット・ブヴォリ、イザベラ・ガスパリーニ、メーガン・グレース・ヒンキス、ジーナ・ストリーム=ジェンセン、
デヴィッド・ドナリー、ニコル・エドモンズ、カルヴィン・リチャードソン、ジョセフ・シセンズ、ほか

指揮:クーン・ケッセルズ、シャルロット・ポリティ(「田園の出来事」)
演奏:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

「義経千本桜」には桜のシーンはない 仁左衛門のいがみの権太と松緑の源九郎狐(2023年6月歌舞伎座夜の部)

 令和5年6月歌舞伎座夜の部を観に行ってきました。今回もなぜか最前列の席を取ることができました。

 仁左衛門の「いがみの権太」を観るのは何度目かですが、今回は間近で細かい表情や動きも見れ、とても素晴らしかったです。松緑の「四の切」は、これは近くで見たのが逆効果だったのか「熱演」という感じがしてしまい、小狐の親を思う心情や可愛らしさや、それに対比される兄に追われる身となった義経の悲しみが、いまいち伝わってきませんでした。

 このブログでは、ぽん太の簡単な感想を書き、また義経千本桜」の豆知識を二つご紹介します。

簡単な感想

仁左衛門による権太の性格のさまざまな面の演じ分けが見事

 仁左衛門は、「木の実」の冒頭の人の良さそうな風から、一転して金を揺り取ろうとする凄み、息子に対する親バカさなどを、見事に演じ分けました。妻の小せん(吉弥)とのじゃらじゃらでは、本当はお爺さん同士の演技なのですが、ヤンキーとヤンママとのイチャイチャに見えました。

 母親からお金を騙し取ろうとする時の表情の使い分けや、母親に甘えて抱きつくところなど、思わず吹き出してしまいながらも、権太のカワイサ、愛らしさが伝わってきました。

 小せんと善太を身代わりにするところでは、舞台奥を向いて目の上に手拭いを置きじっと上を向くところ、松明が煙たいと涙を誤魔化すところ、いつもながらに感動します。そして二人が花道を引かれているところでは、振り返って権太に向かって軽く微笑む吉弥の表情、見ていられずに陣羽織を被って泣き出す仁左衛門に、こちらも我慢できずにもらい泣き。先の同じ花道での幸せなじゃらじゃらと対比され、出会いがあれば別れもある、この世の無常を感じました。

 父・弥左衛門に刺されてからの述懐も良かったですが、ぽん太にはいつもこのくだりが長く感じてしまいます。

 錦之助のは、やさ男の奉公人・弥助が、高貴で風格ある維盛に直るところを、熟練の芸で表現しました。孝太郎の若葉の内侍、千之助の小金吾という配役で、仁左衛門と三代共演。千之助がかっこいいです。仁左衛門みたいに成長して欲しいです。

 歌六の弥左衛門がしっかりした演技で仁左衛門の演技を受け止めてました。梅花の弥左衛門女房お米も、息子の素行に腹を立てながらも、ついつい甘やかしてしまうバカ親を好演。彌十郎梶原景時大河ドラマのブレイクの影響もあるのか、すんごい迫力で観客を惹きつけました。

 壱太郎のお里は、前半が騒がしくてコミカルすぎて、なんか可愛らしさがあまり感じられませんでした。最前列の席で近すぎたせいかしら? 後半の権太の語りのところは良かったです。

松緑の源九郎狐は可愛らしさと身軽さがない

 松緑の「四の切」は、最初の佐藤忠信は丸本ぽくって美しく風格ある演技でした。しかし狐忠信となってからは、ちょっと太めで動きも重くて、狐というよりぽん太の仲間の狸か?という感じ。若いんだからもう少し身体的に頑張って欲しかったです。狐言葉もあまりしっくり来ませんでした。まあ、誰がやってもあんまりしっくり来ませんが。

 一生懸命動こうとしていたせいなのか、席が近かすぎたせいなのかわかりませんが、なんか「熱演」に見えてしまって、小狐の可愛さや、親を思う気持ちがあんまり伝わって来なかったのが残念です。

 静御前は誰が演じるのかな〜♩と配役表を見たら、大ベテランの魁春で、正直ちょっとがっかりしたのですが、実際に見てみると意外と可愛らしくて、なんだかオドオドしていて、芸の力に驚きました。東蔵の川連法眼館は化粧がなんか変ですが、芝居やセリフは素晴らしい。門之助久々に見ました。時蔵義経もそれらしかったです。

豆知識

義経千本桜」には満開の桜のシーンは全くない

 何度も見ている「義経千本桜」ですが、先日ふと「義経千本桜」(よしつねせんぼんざくら)って「吉野千本桜」(よしのせんぼんざくら)のシャレだよな〜と思いました。

 でも検索しても、シャレだと書かれているサイトは見つからず。当たり前すぎて検索にひっかからないのかもしれません。

 で、調べているうちに副産物として初めて知ったのが、「義経千本桜」に桜のシーンはないという事実。え〜今回の「四の切」だって桜満開だし、「道行初音の旅」も満開の吉野桜がバックだろ〜と思うかもしれませんが、それは後年になって作られた演出で、元々は「四の切」は早春だけど雪が残っている状態、「道行」も春とはいえ梅の季節なんだそうです(花のない「千本桜」:「義経千本桜」〜川連法眼館)。

 「義経千本桜」の初演は1747年(延享4年)11月、大阪松竹座。大変な評判を呼び、半年後の翌年の5月には歌舞伎化され、江戸の中村座で上演されました。

 なぜ「千本桜」という題名で満開の桜が出てこないのか、満開の桜の演出はいつ頃現れたのか、それはなぜかなど疑問はつきませんが、今後の宿題にしたいと思います。

義経千本桜」全体のあらすじは?

 何度も見てわかった気になっている「義経千本桜」ですが、そういえば全体のあらすじはどうなっているんだろうと思って、調べてみました。

 まあ、これは、Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/義経千本桜#あらすじ)を見れば書いてありますし、また文化デジタルライブラリー(https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc24/himotoku/d1/1a.html)でも見ることができます。転記すると長くなるのでこれらを参照してください。

 大枠の物語は以下の通りです。平家を討ち取ったことで後白河院からほうびとして初音の鼓(「四の切」に出てくるやつですね)を賜りますが、左大臣藤原朝方はこれは頼朝を「打て」という院宣だと伝えます。最後の最後でこれは藤原朝方の謀略であり、また平家追悼の院宣もまた朝方のしわざであることが判明し、成敗されます。

 そこに、死んだはずの平知盛平維盛・平教経の3人が実は生きていた、という話が組み込まれます。生きていた平知盛の顛末が「渡海屋・大物浦」のいわゆる「碇知盛」の話で、平維盛のその後が今回の「いがみの権太」の話です。

 3人目の平教経の話はぽん太はこれまで観たことがありませんが、実は「四の切」がそれなんですが、近年の上演ではカットされてしまってます。川連法眼が舞台に登場する前に出席していた評定(会合)に参加していた僧「横川の覚範」が実は平教経です。教経は法眼が義経を匿っていると知り、義経を殺そうとしていたのです。

 「四の切」の最後で、義経を襲おうとした法師たちが源九郎狐の幻術によって退治されますが、この法師たちは反義経派の僧たちが差し向けたものでした。僧たちとともに鎧を着込んでやってきた横川の覚範を見て、義経はその正体が平教経であることを見破ります。

 最後の五段目「吉野山の段」では、左大臣藤原朝方がひったてられてきて、「頼朝を打て」という院宣も平家追討の院宣も朝方の謀略であることが明るみに出ます。平教経は平家を滅亡に追い込んだ朝方の首を切り落としますが、その教経も佐藤忠信によって討たれるんだそうです。

公演情報

六月大歌舞伎

歌舞伎座
2023年6月  夜の部

六月大歌舞伎|歌舞伎座|歌舞伎美人

仁左衛門が語る、歌舞伎座『義経千本桜』|歌舞伎美人

竹田出雲・三好松洛・並木千柳 作
義経千本桜(よしつねせんぼんざくら) 』
  木の実
  小金吾討死
  すし屋
  川連法眼館

〈木の実・小金吾討死・すし屋〉
  いがみの権太  仁左衛門
   弥助実は三位中将維盛  錦之助
  若葉の内侍  孝太郎
  お里  壱太郎
  主馬小金吾  千之助
  六代君  種太郎
  権太伜善太郎  秀乃介
  弥左衛門女房お米  梅花 
  猪熊大之進  松之助
  権太女房小せん  吉弥
  梶原平三景時  彌十郎
  鮓屋弥左衛門  歌六

〈川連法眼館〉  
  佐藤忠信/忠信実は源九郎狐  松緑
  源義経  時蔵
  駿河次郎  坂東亀蔵
  亀井六郎  左近
  飛鳥  門之助
  川連法眼  東蔵
  静御前  魁春

『特別展 無冠の仏像—伊豆・静岡東部の無指定文化財』上原美術館

 2023年の12月上旬、ぽん太とにゃん子は下田の上原美術館に仏像を観に行ってきました。『無冠の仏像ー伊豆・静岡東部の無指定文化財』という特別展ですが、国宝や重文の名品展がメジャーな博物館で大々的に行われるなか、あえて文化財指定を受けていない仏像を集めて展示したところに意気込みを感じます。

 一般的に使われる「未指定」ではなく、「無指定」文化財という用語をあえて使ったのも、文化財指定を望んでいない所有者の気持ちに配慮したものだそうです(無冠の仏像ー伊豆・静岡東部の無指定文化財|上原美術館通信 No.19(pdf))。

 上原博物館は、独自に伊豆・静岡東部の仏像の調査を長年続け、地元の寺社との信頼関係を築いており、地道な活動は頭が下がる思いです。

 このブログでは、上原美術館大正製薬社長上原正吉夫妻との関係『無冠の仏像ー伊豆・静岡東部の無指定文化財』に出品された仏像をご紹介いたします。

上原美術館創始者上原正吉夫妻

上原正吉大正製薬の生みの親

 上原美術館の名前の由来は?と思ったら、敷地の一角に「上原正吉先生夫妻像」がありました。

 でも、誰それ?

 かたわらの案内文を読んでみると、なんと大正製薬株式会社の生みの親とのこと。(狸の)医療の世界をなりわいとするぽん太ですが、知らなんだ、あゝ知らなんだ。

 どれどれ、大正製薬の公式サイト(沿革|大正製薬)で会社の沿革を調べてみると……。

 大正元年(1912年)「大正製薬所」創業。なるほど、大正元年創業だから「大正製薬」という名前にしたのか。

 社長は石井絹治郎とのこと。違うやん。上原正吉じゃないやん。

 1946年に上原正吉が社長に就任。ああ、創業者じゃないんですね。1948年に大正製薬株式会社に名称を変更。その後、パブロン、アイリス、リポビタンDなどを売り出し、大正製薬は大企業に成長。なるほど、そういうことで大正製薬「株式会社」の「生みの親」なんですね。

上原正吉夫妻の仏像コレクションが上原美術館の始まり

 で、上原美術館がどのようにできたかというと(概要 | 上原美術館)、1983年に上原正吉・小枝夫妻の寄付に基づき上原仏教美術館開館。この年は正吉氏が他界した年ですね。また美術館ができた場所は、奥様の小枝さんの生まれ故郷なんだそうです。

 1988年、上原昭二(正吉の息子さんです)の寄付で上原近代美術館が開館。2017年、上原仏教美術館上原近代美術館が一つになって、上原美術館が誕生とのこと。上原夫妻の私的コレクションだった仏像と、息子さんの近代美術コレクションが合体して、この美術館ができたということのようです。

 さらに上の碑文によると、この上原夫妻の銅像は、「日本を代表する彫刻家、富永先生により」造られたとのこと。誰それ? 知らんがな。

 検索してみると、富永直樹(1913〜2006)ですね。富永直樹 - Wikipediaを見てみると、東京美術学校出身で文化勲章を受賞。確かに日本を代表する彫刻家のようですが、検索してみたけど残念ながらぽん太が知っている作品はありませんでした。

 富永は三洋電機のインダストリアルデザイナーとしても有名で、4号電話機や、大ヒット商品のプラスチック・キャビネットラジオSS-52型(画像→◆富永直樹生誕100年記念展③ | 安中千絵の食ブログ)などを手がけたそうです。

 また上原美術館の隣に向陽寺というお寺がありますが、昭和53年に夫妻が再興したお寺で、夫妻はこちらのお寺に眠られているそうです(向陽寺(静岡県稲梓駅)の投稿(1回目)[ホトカミ])。

 今回の展覧会に、向陽寺所蔵の素敵な仏像が展示されております。

それぞれの出品作の感想

 それでは今回の展覧会に出品された仏像の感想を、簡単に書きたいと思います。

 画像があるものにはリンクを張っておきましたが、上原美術館制作の下の動画でも、すべての仏像の画像と解説を見ることができます。

 「1 彫像断片」は撮影が許可されております。

 伊豆国市の国清寺に伝わる300点以上の彫像の断片のうち、130点が展示されていました。
 仏像とはいえ時の流れのなかでさまざまな理由で劣化していくのでしょう。「仏像でさえも……」と、この世の無常が意識されます。

 「3 四面神像」(画像)は、像高23cmと小さいながら、高い精神性が感じられる平安時代の神像。ひとつの身体に4つの顔を持っています。墨で長い髪が描かれていることから、4つとも女神と考えられるそうです。富士山の麓の裾野市にある、その名も茶畑浅間神社に祀られているということで、ぽん太にはこの像の形が富士山そのものに見え、また女神は木花開耶姫であるように思えます。

 「4 随身像」は、同じ茶畑浅間神社に伝わる2体の像で、四面神像の両側に置かれておりました。損傷が激しいですが、一体の顔が横向きで、四面神像の方を見ているのが珍しいです。

 「5 不動明王」はかなり朽ちていて、顔の表情は粘土を盛り上げて作ってあります。上原美術館の調査によって、平成元年に発見されたものだそうです。上原美術館は、単に金持ちが集めた仏像を展示してのではなく、地域のお寺と信頼関係を築いた上で、地道な調査研究を行っており、頭が下がる思いです。

 「6  薬師如来像」(画像)は、お顔を補修して目を書き込んでしまい、やっちまったな〜という感じですが、どうしてどうして全体としては非常に整った平安後期の仏像です。薬師如来と言われていますが、壺を持つ左手は後補で、元々は阿弥陀如来だったとも考えられるそうです。

 「7 阿弥陀如来像」(画像/)は、上で書いた、上原美術館に隣接する向陽寺に伝わる像。像高約40cmとそれほど大きいものではないけれど、とても整った美しい像です。ちょっと少年っぽい表情も魅力的。年代は10世紀後半まで遡ることができ、伊豆半島で最古の阿弥陀如来だそうです。

 「8 如来像」、「9 十一面観音像」(画像)は、今回出品されていない薬師如来像とともに、三島市の長福寺に三尊像として祀られているそうです。三つとも平安仏。如来像は、そのあたりにいそうなお顔で、親しみが感じられます。いっぽう十一面観音はとても整ったお姿。概形の身を表す頭上仏は、令和元年の修理で成形したものとのこと。ともに令和元年に上原美術館の調査によって見出されたもので、今後の研究が待たれます。

 河津町地福院の「10 吉祥天像」(画像:地福院(静岡県河津町)— 破損しつつも女性らしき暖かさと美しさを感じさせる吉祥天 – 祇是未在)は、かなり破損が進んでいて痛々しいけれど、ふっくらしておちょぼ口の優しいお顔に救われます。下田の尾ヶ崎ウイングのところにあった薬師堂で、長く薬師如来として祀られてきた像で、60年に1度しか御開帳されない秘仏だったそうです。

 如意輪観音の優美なお姿が好きなぽん太とにゃん子ですが、「11 如意輪観音像」(画像)はなんか違和感を感じます。お顔がおっさんっぽいし、状態はほぼ直立で、宝珠を持つ右手や天を指差す左手は斜めに傾いています。これ60年に1度公開される秘仏で、長く馬頭観音として信仰されてきたそうです。

 河津町・林際寺の「12 観音菩薩像」は、平安時代10世紀の作で、とくに身体に古風な印象があります。お顔は下側によっていておちょぼ口のため、少年っぽい印象があります。

 「13 毘沙門天像」(画像:毘沙門天立像 | 富士山の裾野・光明寺)は裾野市光明寺の感応堂に、「14 大日如来像」・「15 伝阿弥陀如来蔵」・こんかい未出品の不動明王とともに祀られているそうです。上の画像を見ると、ひょろっとしていて、右肩・右腕がさがっていて、プロポーション崩壊しているようにも見えますが、見る角度によっては躍動感が感じられます。

 光明寺の二つ目の仏像「14 大日如来像」(画像:大日如来坐像 | 富士山の裾野・光明寺)は、一度見たら忘れられないちょっと生々しい像。出品目録では室町後期〜桃山時代となっておりますが、図録では桃山時代〜江戸時代前期となっております。鎌倉時代に運慶によってひとつのピークを迎えた仏像は、室町時代になって装飾的になり、桃山〜江戸になると見せ物っぽくなっていったようにぽん太は思います。この像も、特異な表情がちょっと不気味で、体もぬめっとしていて腹回りには贅肉もあり、さわると汗の湿り気が感じられそうです。神々しさとはまったく違う存在感があり、ぽん太にはなんと形容詞していいのかわかりません。

 「15 伝阿弥陀如来像」(画像:如来坐像(にょらいざぞう)(伝阿弥陀如来) | 富士山の裾野・光明寺)は、「14 大日如来像」と同じ作者により同時期に作られたと考えられていますが、玉眼が入っていた左目が損傷したのか、当て木をした上に目が描かれているため、お岩さんというか、にゃん子が白内障手術をした後のプラスチック眼帯装着時のようで、不気味さが倍加しております。しかし全体のお姿は大日如来よりもフツウのようです。阿弥陀如来として信仰されてきましたが、印相から釈迦如来とも考えられております。

 「16 神王像(閉口)」から「20 如来像」までの宗徳寺の諸像は損傷が激しいです。中でも目を引くのは「19 僧形像」で、節がいっぱいあって捻れた木が使われています。右のこめかみあたりには大きな窪みさえあります。わざわざこのような木を使ったということは、この木が霊木や御神木だったと思われます。

 「21 観音菩薩像」は、像高16.1cmと小さいですが、とても細かく造りこまれており、細かい截金細工や、髷の美しい髪の流れなど、鎌倉時代の素晴らしい仏さまです。

 「22 十一面観音像」も像高18.1cmと小さい仏さまですが、「21 観音菩薩像」とは異なり全体に装飾的で、大きめのお顔は涼やかな表情、脚の上の衣紋も装飾的ですね。院派の特徴を持つ仏さまです。

基本情報

『特別展 無冠の仏像ー伊豆・静岡東部の無指定文化財
上原美術館 仏教館  (静岡県下田市宇土金341)
会期:2022年10月8日〜2023年1月9日
公式サイト・https://uehara-museum.or.jp/exhibition/past-exhibition/mukan-no-butsuzo/
プレリリース・文化財指定のない「無冠」の仏像、寺外初公開の平安仏など約20点を展示 | 上原美術館のプレスリリース | 共同通信PRワイヤー

出品リスト

1 光背断片 南北朝室町時代(14〜16世紀) 木造 
1 彫像断片 南北朝室町時代(14〜16世紀) 木造 伊豆国市・国清寺
2 菩薩像背面 平安時代(10世紀) 木造・素地 高さ121.1 河津町・わかづ平安の仏像展示館
3 四面神像 平安時代(11〜12世紀) 一木造・彫眼・素地 像高23.1 裾野市・茶畑浅間神社
4 随身像 平安時代 一木造・彫眼・素地 像高(横向き52.2(正面向き)54.2 裾野市・茶畑浅間神社
5 不動明王 平安時代(12世紀) 一木造 像高62.9  西伊豆市・圓成寺
6  薬師如来像 平安時代(12世紀) 一木割矧造 像高99.1  南伊豆町最福寺
7 阿弥陀如来像 平安時代(10世紀) 一木造・古色 像高40.7 下田市・向陽寺
8 如来像 平安時代(11世紀) 一木造 像高142.7 三島市・長福寺
9 十一面観音像 平安時代(11世紀) 一木造 像高151.6 三島市・長福寺
10 吉祥天像 平安時代(10世紀) 一木造・素地 像高123.1 河津町・地福院
11 如意輪観音像 平安時代(10世紀) 一木造・素地・墨 像高77.1 下田市・法雲寺
12 観音菩薩像 平安時代(10世紀) 一木造・漆箔 像高102.8 河津町・林際寺
13 毘沙門天像 平安時代(11世紀) 一木造・彩色 像高169.5 裾野市光明寺
14 大日如来像 室町後期〜桃山時代(16世紀) 寄木造・玉眼・漆箔 像高100.3 裾野市光明寺
15 伝阿弥陀如来像 室町後期〜桃山時代(16世紀) 寄木造・玉眼・漆箔 像高88.0 裾野市光明寺
16 神王像(閉口) 平安時代 一木造・素地 像高155.7 伊豆国市・宗徳寺
17 神王像(開口) 平安時代 一木造・素地 像高170.1 伊豆国市・宗徳寺
18 僧形像 平安時代 一木造・素地 像高44.1 伊豆国市・宗徳寺
19 僧形像 平安時代 一木造・素地 像高61.2 伊豆国市・宗徳寺
20 如来像 平安時代22 十一面観音像一木造・素地 像高82.0 伊豆国市・宗徳寺
21 観音菩薩像 鎌倉時代(14世紀) 一木造・玉眼・金泥・截金 像高16.1 河津町・林際寺
22 十一面観音像 南北朝時代(14世紀) 寄木造・玉眼・金泥 像高18.1 南伊豆町・潮音寺

湯ヶ野温泉福田家と小説『伊豆の踊子』を比較検討してみたよ

 2022年11月下旬、ぽん太とにゃん子は伊豆の福田家に泊まってきました。15年ぶり2回目の宿泊です。

 福田家は「伊豆の踊子の宿」と銘打っておりますが、ノーベル賞作家の川端康成がこの宿に泊まった時の体験をもとにして、名作『伊豆の踊子』を書いたことで有名です。その後も川端は何度もこの宿を訪れたました。また『伊豆の踊子』はこれまで6回映画化されておりますが、そのロケ地としても使われています。

 この宿の宿泊記はいっぱいあるので、このブログでは『伊豆の踊子』における福田家の記述についてよりみちしてみました。

 

川端康成伊豆の踊子』は青空文庫では読めません

 川端康成が『伊豆の踊子』を発表したのは1926年(大正15年)、26歳の時です。

 タヌキのぽん太は、『伊豆の踊子』と聞いても、映画で山口百恵が裸で風呂から飛び出してくるシーンしか思い出せません。というか、ぽん太10代の時のその印象が強烈すぎて、他の記憶が飛んでしまったのかもしれません。ということで改めて原作を読み返してみました。

 残念ながら川端康成の作品は青空文庫では読めません。川端康成が他界したのは1972年ですから、70年後の2042年まで著作権があるためです。図書館で借りるか買うかしてお読みください。Youtubeには朗読の動画がアップされているようです(→【朗読】伊豆の踊子 - 川端康成 <河村シゲル Bun-Gei朗読名作選> - YouTube)。

 あらすじを10秒でまとめます。

 「ひねくれた若者が憂鬱から逃れるために伊豆に一人旅に出ます。若者は途中で出会った旅芸人一座の中にいた踊り子に淡い恋心を抱きます。純真な踊り子との交流のなかで、若者の心が解きほぐされていきます。」

 この作品は過去6回映画化されています。

  1. 1933年、松竹キネマ、(題名『恋の花咲く 伊豆の踊子』)、監督:五所平之助、踊子:田中絹代、私:大日方伝
  2. 1954年、松竹、監督:野村芳太郎、踊子:美空ひばり、私:石浜朗
  3. 1960年、松竹、監督:川頭義郎、踊子:鰐淵晴子、私:津川雅彦
  4. 1963年、日活、監督:西川克己、踊子:吉永小百合、私:高橋秀樹
  5. 1967年、東宝、監督:恩地日出夫、踊子:内藤洋子、私:黒澤年男
  6. 1974年、東宝、監督:西川克己、踊子:山口百恵、私:三浦友和

 それぞれの作品で福田家がどのように扱われているのか、というのはちょっと興味がありますが、さすがにぽん太はそこまでよりみちする気にはなれませんので、またの機会があったら……。

主人公「私」の旅の日程は

出発から下田までの宿泊地

 小説『伊豆の踊子』で、天城峠に近づいた「私」は、次のように書いています。

一人伊豆旅に出てから四日目のことだった。修善寺温泉に一夜泊り、湯ヶ島温泉に二夜泊まり、そして朴歯の高下駄で天城を登ってきたのだった。

 天城峠茶店で踊子たち旅芸人一行に(3度目に)出会った「私」は、そこから共に旅をし、その夜は湯ヶ野の温泉宿に宿泊。小説には旅館名は書かれておりませんが、ここが「福田家」ですね。

 当初は翌朝出発の予定でしたが、連泊することになったた旅芸人たちの勧めで、「私」は2連泊します。

 湯ヶ島を立った「私」と旅芸人一行は、その日のうちに下田に到着し、「甲州屋」という木賃宿に宿泊。翌朝下田港から、船で帰途につきました。

下田ー東京間で船中泊したのか?

 さて問題は、「私」が乗った船が、その日のうちに東京に着いたのか、それとも船内で一泊したのかという点です。小説を読んでもよくわかりません。

 東海汽船のサイト(航路・所要時間|伊豆諸島へ行く船旅・ツアー|東海汽船)を見てみると、現在は東京ー下田間の直通の船便はありませんが、ほぼ同距離と思われる東京ー新島の所要時間を見てみると、高速ジェットで最短2時間20分、大型客船で最短8時間30分となっております。ちなみに東海汽船の大型客船「さるびあ丸」の速度は20ノット(約38km/h)とのこと。

 『伊豆の踊子』の元になった旅を川端康成がしたのは1918年(大正7年)ですが、この頃の近海の客船って、いったいどういう状況だったんでしょう。ぽん太はまったく知識がありません。検索してみても、時代による船の速度の変化はよくわかりません。仮に10ノットだったとすると、下田ー東京は17時間ぐらいかかることになります。これだと船中泊ですね。

 小説をもう一度じっくり読み直してみます。出発の日の朝7時に「私」が甲州屋で食事をしていると、踊子の兄の栄吉が迎えにきます。甲州屋は現在もGuest Hause 甲州屋(https://guesthouse-koshuya.com)として営業しており、当時の下田港がどこだったのかわかりませんが、歩いて10分から20分という感じです。

 港で待っていた踊子にも見送られ、「私」は「はしけ」で「汽船」に向かいます。帆船ではなくて蒸気船で、はしけで船まで行ったようです。

 土方風の男がひとりのお婆さんを「私」に託し、「霊岸島へ着いたら、上野の駅へ行く電車に乗せてやってくんな」と言います。船は東京の霊岸島(現在の新川)行きだったようです。

 船が出航してしばらくしたところで、「海はいつの間に暮れたのかも知らずにいたが、網代や熱海には灯があった」と書かれています。ええ? 網代や熱海って、まだ半分も来てないじゃん。そこで日が暮れて灯りが灯ってるってことは、やはり当日には着かないってことですね。

 「明日の朝早く婆酸を上野駅へ連れて行って水戸まで切符を買ってやるのも、至極あたりまえのことだと思っていた」。やはり翌日の早朝に霊岸島に着くようです。

 「船室の羊燈(ランプ)が消えてしまった」。船内での就寝時間ですね。

 船が夜通し運行したのか、あるいは途中のどこかでしばらく停泊していたのか、ぽん太にはわかりません。

結論:「私」の旅の日程

 結論です。「私」の旅の日程は以下のような7泊8日となります。

 違ってたら教えてください、偉いひと。

1日目 一高の寮を出発し、修善寺
2日目 湯ヶ島
3日目 湯ヶ島
4日目 湯ヶ野泊
5日目 湯ヶ野泊
6日目 下田(甲州屋)泊
7日目 船中泊
8日目 早朝に霊岸島到着

川端康成自身の旅の日程

 川端康成が『伊豆の踊子』の元になる伊豆旅行をしたのは1918年(大正7年)。川端は当時19歳で一高の2年生でした。小説のなかの「私」は20歳と書かれていますが、これは脚色ではなく、数え年でしょう。数え年は生まれた時点で1歳とし、その後正月を迎えるたびにプラス1歳となります。日本では1902年(明治35年)に公的には数え年が廃止されて満年齢を使うことになりましたが、実際に民間では戦前まで数え年が使われていました。

 さて川端康成の旅は、一高の寮を出発し、修善寺湯ヶ島・湯ヶ野を経て下田へ抜け、そこから船で帰途につくというもので、『伊豆の踊子』とコースは全く同じです(Wikipedia - 川端康成)。

 日程はWikipediaには「10月30日から11月7日まで約8日間」と書かれてますが、なんだそりゃ? 「約8日間」って。10月30日から11月7日までだったら8泊9日だと思いますが。昔は今日の昼に出発して、明日の昼に帰ってくるのを、約1日間の旅と行ったのでしょうか? Wikipediaは古い研究書の記述を丸写ししているのかもしれませんね。

 さて8泊9日だと、『伊豆の踊子』の旅よりも1日多いようです。福田家の女将を取材した記事(文豪の息吹 今でも部屋に 「踊子」舞台 河津の福田家【伊豆に息づく 川端康成没後50年②】|あなたの静岡新聞)には、川端康成は福田家に11月2日から3泊したと書かれていますから、そうだとすると帳尻が合います。ただ女将が「小説そのものです」と言っているのが気になります。小説では2泊ですから。

 ということで、川端康成の伊豆旅の日程は以下の通りです。

1日目 一高の寮を出発し、修善寺
2日目 湯ヶ島
3日目 湯ヶ島
4日目 湯ヶ野泊
5日目 湯ヶ野泊
6日目 湯ヶ野泊
7日目 下田(甲州屋)泊
8日目 船中泊
9日目 早朝に霊岸島到着

伊豆の踊子』に描かれた福田家

下田街道からのアプローチ

 『伊豆の踊子』で湯ヶ野に着いた「私」は、最初は踊子たちと同じ木賃宿に入りますが、しばらくして別の温泉宿に案内されます。その様子は次のように書かれています。

 私達は街道から石ころ路や石段を一町ばかり下りて、小川のほとりにある共同湯の横の橋を渡った。橋の向うは温泉宿の庭だった。

 当時の下田街道がどこを通っていたかわからないのですが、現在の国道414号の信号から福田家の方向に斜めに下っていく道が、下のgoogleマップのように、古い街道の面影を残しているようにぽん太には感じられます。

 1町というのは約109mで、実際にはこの道から河津川にかかる橋までは約50mですから、ちょっと距離感が違うように思えます。しかし石段を降りて共同浴場の横の橋を渡ったところに温泉宿があるという描写は、まさしく福田家さんに他なりません。

 ただ、「橋の向こうは温泉宿の庭だった」という表現からは、ひょっとして当時は橋が少し下流側、宿の玄関の真正面あたりにあった可能性も考えられます。

「私」=川端康成が泊まった部屋は踊子1?

 『伊豆の踊子』の「私」=川端康成が泊まったのは、「踊子1」という部屋だそうです。橋を渡ってちょうど正面の2階です。

 玄関から入って帳場まわり。この辺りは新しくなっているようですね。奥の階段を2階に登っていきます。

 「踊子1」の部屋は、前回泊まった時に見学だけさせていただきました。7畳+8畳の二間続きで、細工が行き届いた立派な部屋です。

 宿泊料金は他の部屋よりちょっと高いだけなので、ぜひ泊まってみたいところですが、人気があってなかなか空いてません。

 『伊豆の踊子』に次のような記述があります。

 男が帰りがけに、庭から私を見上げて挨拶をした。

「これで柿でもおあがりなさい。二階から失礼」と言って、私は金包みを投げた。

 やはり部屋は2階のようですね。

 しかし一方、次のような描写もあります。

部屋は薄暗かった。隣室との間の襖を四角く切り抜いたところに鴨居から電燈が下がっていて、一つの明りがニ室兼用になっているのだった。

 現在の二間続きの立派な客室は、いくらエリートが約束された一高生とはいえ、19歳の学生が留まるにしては高級すぎるような気がします。当時は7畳と8畳は別の客室として使われていたのではないでしょうか。泊まった部屋が川に面した7畳だったのか、それとも8畳だったのかは、『伊豆の踊子』を熟読してもよくわかりませんでした。

 なおブログによっては、「なるほどこの部屋からだと向かいの共同浴場から飛び出してきた踊り子がよく見える」などと書いてあるものがありますが、原作をよく読んでみてください。

 翌る朝の九時過ぎに、もう男が私の宿に訪ねて来た。起きたばかりの私は彼を誘って湯に行った。

……彼に指ざされて、私は川向こうの共同湯の方を見た。湯気の中に七八人の裸体がぼんやり浮んでいた。

 仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと……

 「私」が共同浴場の踊り子を見たのは、宿の温泉からです。

榧風呂から共同浴場の踊り子がホントに見えたのか?

半地下にあるので見えるはずがない

 こちらが「私」が入った榧(かや)風呂です。1Fの脱衣所らか中に入ると半地下に湯船があります。

 温泉が低い位置で自噴している時、このように掘り下げたところに湯船を作ることがあります。ただ温泉分析書をみると現在はポンプで汲み上げているようです。川端康成が止まった頃に自噴だったのかポンプだったのか、ぽん太にはちょっとわかりません。

 上の写真の左上の方向が河津川で、ここから「私」が川の反対側の踊り子を見たのですね。

 し、しかし……。どこから見たのだらう?

 窓はあるものの、とても高い位置にあり、温泉に浸かっている「私」からは空しか見えません。

こちら側の壁が抜けていた?

 こちらのブログ(伊豆の踊子の宿「福田家」 - 鉄道と自転車でプチ冒険に出よう)によると、ソースは書かれていませんが、上の写真の右上のタヌキの置物の後ろの壁が昔はなくて、そこから共同浴場が見えたと書かれています。しかし、この方角は川の下流方向になると思うのですが……。

  Googleマップからの画像です。

 「伊豆踊子の宿 福田家」のベッドマークがあるのがほぼ温泉の位置。河津川の向かいの「湯ヶ野温泉」という表示のベッドマークがあるのが共同浴場です。福田家の建物は河津川に向かって左向きに斜めに建ってますから、確かに上の写真の方角に共同温泉が見えることになりますね!!  これはビンゴかもしれません!!!

それにしても地下になってしまう

 しかしまだ疑問が残ります。この写真の向かって左の出っ張っているところの、縦に桟が入っている窓が榧の湯の窓ですが、写真からわかるように窓の位置が地面すれすれです。そうすると例のタヌキの背後の壁は地中部分になってしまいます。

 一つの可能性としては、榧風呂は元々は河津川に面して一段低いところに作られていたが、後に護岸工事が行われて石垣が作られて、半地下になった、と考えられます……が、よくわかりません。

 ちなみにこちらは、橋の上から対岸を撮った写真になりますが、中央やや左の茶色っぽい建物の一階が、共同浴場になります。けっこう距離がありますから、川端康成は超ドアップで踊子の裸を見たわけではなさそうです。

 共同浴場は地元民専用ですが、福田屋のホームページには、宿泊者は入浴可能と書いてあります。こんかいぽん太は仕事の疲れから入りに行く元気がなかったのですが、とても後悔しております。

 

基本情報

住所:静岡県賀茂郡河津町湯ヶ島236
公式サイト ・
福田家 | 伊豆の踊子の宿
温泉:カルシウムーナトリウム・硫酸塩温泉    
   源泉掛け流し(加水(?)加温(?)循環(?)消毒(?))
設備:シャワートイレあり、無料Wifiあり 
料金:電話で予約したスタンダートプラン 1階10畳和室
   2名1室、1人19,800円

「リゴレット」の原作ユーゴー『王者の悦楽』を読む(新国立オペラ2023年5月28日)

 新国立劇場の『リゴレット』を観に行って来ました。なかなか素晴らしい舞台で、とても楽しめました。

 このブログでは、オペラに詳しくないぽん太の感想はちょっとだけにして、リゴレット』の原作であるヴィクトル・ユーゴーの戯曲『王者の悦楽』をよりみちします。

感想:清純無垢なハスミック・トロシャンのジルダ

 今回の新国立の『リゴレット』は、エミリオ・サージの新演出とのことですが、ぽん太は新国立の以前の演出は観たことはありません。

 抽象風な舞台装置ですが、衣装は当時のスタイル。極端な読み替えもないオーソドックスな演出ですが、殺し屋のスパラフチーレと妹のマッダレーナが性的関係を持っていたのには、なんでわざわざここにねじ込んで来たのかと疑問に思いました。全体的に地味で、ドラマチックさにはちと欠ける気がしました。

 第1幕は照明が暗く、ぽん太は仕事の疲れから時折り意識が遠のきましたが、ジルダのアリア「慕わしき御名」で目がばっちり覚めました。ジルダ役のハスミック・トロシャンはまさに清純無垢。歌声も透明で、しっかりしたテクニックで有名なアリアを歌い上げました。

 マントヴァ公爵役のイヴァン・アヨン・リヴァスはペルー人とのこと。誠実で真面目そうな人柄で、スケべで憎たらしい公爵役はちょっと合わない気がしました。しかし歌は尻上がりに良くなっていき、見事な歌声でした。

 リゴレットのロベルト・フロンターリは熟練の安定した芸。そのほか日本人勢も大活躍でした。

 マウリツィオ・ベニーニ指揮の東京フィルの演奏も良かったと思います。新国立合唱団もいつもながら素晴らしかったです。 

原作・ユーゴーの『王者の悦楽』を読む

リゴレット』の原作『王者の悦楽』はAmazonで購入可能

 『リゴレット』の原作は、Wikipediaを見るとヴィクトル・ユーゴーの戯曲『王は愉しむ』(Le Roi s'amuseとなっておりますが、その題名での和訳は見つかりません。

 いろいろと調べてみると、早川善吉という人が『王者の悦楽』というタイトルで和訳しているようで、これが現在にいたるまで唯一の邦訳のようです。元々は1919年(大正8年)に冬夏社が刊行を開始したた『ユーゴー全集に収められていたようです。

 実はこの翻訳、現在も格安のお値段で手に入れることができます。『歌劇『リゴレット』/悲劇『王者の悦楽』 ペーパーバック – イラスト付き』(ANFソフトウェア(サウンド・バンク)、2018年)に収録されています。幻の名著、永竹由幸監修・翻訳の『原作翻訳付きオペラ対訳台本シリーズ』の復刻だそうで、なんとたったの2,750円で、オペラの対訳と原作の翻訳が手に入ります。これはお得!

 ぽん太自身は、近くの図書館に『ユーゴー全集 第4巻 復刻版 』(本の友社、1992年)があったので、それを借りて読みました。こちらも復刻版ですが、Amazonでは現在取り扱いがありません。

 さて、この本の友社の復刻版、文字が小さくて所々かすれてて読みづらいです。おまけに旧仮名遣い。「調戯ひ」って何かとおもったら「からかい」とのこと。そんなん知らんがな。

Wikipediaやその他は原作を『王者の悦楽』に直してほしい

 「リゴレット 原作」で検索すると、ユーゴーの『王は愉しむ』がヒットします。Wikipediaでもそうなっています。

 しかし上に書いたように、この題名での邦訳は存在しません。《Le Roi s'amuse》という原題の直訳『王は愉しむ』を誰かがネットに上げたのが、そのまま受け継がれてネット上に広まっていると思われます。引用とリンクで拡散するネットではよくある現象です。

 『王者の悦楽』という邦訳がすでにあり、それが唯一の邦訳であり、現在も手に入るのですから、訳文は古いけど「オペラ『リゴレット』の原作はユーゴーの『王者の悦楽』」としてほしいと思います。

 ついでにwikipediaで、Le Roi s'amuse》が初演されたのは「フランセ座」となってますが、語学的には「フランス座」で、正確には「コメディ・フランセーズ」です。

 訂正して、偉い人。

ネットで読めるフランス語原文(Le Roi s'amuse)

 ちなみにフランス語の原文は下のサイトで読めます。

 

ネットで読めるオペラ『リゴレット』のイタリア語台本の対訳

 またオペラ『リゴレット』の台本(イタリア語)の対訳は、下記の「オペラ対訳プロジェクト」のサイトにアップされております。いつも利用させていただいております、ありがとうございます。

早川善吉の邦訳はかなりの意訳

 早川善吉の翻訳はかなり意訳です。たとえば冒頭の王のセリフは、フランス語の原文では以下のとおりです。

Comte, je veux mener à fin cette aventure.

Une femme bourgeoise, et de naissance obscure

Sans doute, mais charmante!

 「伯爵よ、わしはこの冒険をうまく成し遂げようと思う。確かに平民で生まれもはっきりしないけれど、魅力的な女だ。」(ぽん太訳)といったところですが、早川善吉訳では次のようになってます(漢字は新字体に変えてあります)。

わしゃ冒険な猟を決してやめまいぞ。あれ程の苦労の実が実るまでは。よしあの女が名もない階級の平民であろうとも!あの女の生まれも解らず、其の名は匿されて居ようとも。それでどうなのだ?わしのこの眼はまだあれ程に美しいものをこれまでにみなかった。

 これは一例で、それ以外にト書きも原作と全然違ってたりします。

 この翻訳が行われた大正時代は、まだ演劇といえば歌舞伎が代表で、そこに小山内薫らが西洋演劇を日本に取り入れようとし始めていた頃でした。この翻訳も、このまま上演することを前提にした意訳だったのかもしれません。

ストーリーやセリフはよく似てます

 さて、ユーゴーの原作は当然のことながらフランスが舞台になっていて、16世紀に実在した国王のフランソワ1世が登場します。道化の名前はトリブレ、その娘はブランシュ、呪いをかける老貴族はサン・ヴァリエです。

 名前こそ違いますが主要登場人物は同じで、ストーリー展開や各場面の順序も、オペラと原作はほぼ一致してます。

 さらにセリフも似ています。例えばオペラの第3幕でリゴレットが殺し屋スパラフチーレに殺す人の名前を聞かれ、「奴の名は罪、おれの名は罰だ」と答えますが、原作にも同じセリフが書かれてます。

 さらに有名な「女心の歌」も、原作で王が似たような歌を歌います。

Souvent femme varie,

Bien fol est qui s'y fie!

Une femme souvent

N'est qu'une plume au vent!

(いつも女は変わる。馬鹿者だけが女を信じる。女はいつも風の中の羽でしかない:ぽん太訳)

原作は権力者の王の享楽と、弱者の民衆の苦しみが対比される

 次に原作とオペラとで違うところを見てみましょう。

 オペラではマントヴァ公爵は、モーツァルトの『ドン・ジョバンニ』じゃないけれど、好色だけどちょっと許されるキャラになってます。でもユーゴーの原作ではフランソワ1世は尊大で権力によって思うがままに享楽を手に入れる徹底的に嫌な奴です。

 オペラではモンテローネ伯爵が、自分の娘をマントヴァ公爵が侮辱したことで激怒しますが、原作ではその事情が詳しく語られます。サン・ヴァリエは王に叛逆を企てたことで絞首台に運ばれますが、ぎりぎりのところで釈免されて命が助かります。しかしそれは交換条件として、サン・ヴァリエの娘が父を救うために王に身を委ねたからだったのです。

 また貴族たちに拉致されて宮廷に連れてこられ怯えているブランシュに対し、国王は傲慢にも「フランスの国も、国民も、財産も、名誉も、快楽も、権力も、すべてわしのものだ。お前もわしのものなんだ」などと言い放ちます。

 さらにオペラのラストで、リゴレットが遺体の入った袋を川に沈めようとしている時、遠くから公爵の歌声が聞こえてきます。ここで公爵が歌を歌った理由はオペラでは明示されておりませんが、何も知らぬ公爵が脳天気に鼻歌を歌っているようにぽん太には聞こえます。しかし原作では、王は自分を殺そうとた何者かが身代わりの死体(さすがにそれがブランシュだとは知りませんが)を運んでいったのを知った上で、殺し屋の妹の手筈で逃げていくのですが、そのさい自分が生きていることをアピールするためにわざとあの歌を歌うのです。

 一方で道化のトリブレは、せむしの不具に生まれたせいでさんざん馬鹿にされて酷い目に遭い、人間としての感情を押し殺して、道化として馬鹿にされててきたことを嘆き、宮廷やその周囲の人々を憎みます。自分の娘だけが生きがいですが、娘には自分の名前さえも教えていないなど、ちょっと病的な感じもします。その娘を手ごめにされたトリブレは、王への復讐を誓います。そうしてついに死体の入った袋を受け取った時、神の如き王が自分の足元に横たわっていることに興奮し、これまで人間以下の扱いをされてきた弱者が、ついにあらゆる力を持つ国王に勝ったのだと喜びをあらわにします。しかし最後には、自分の企てが最も大切にしてきた娘を殺すことだったことを知るのです。

 ユーゴーは、享楽を欲しいままにして罪にも問われずのうのうと暮らす国王と、人に蔑まれ馬鹿にされ、最愛の娘を自ら殺す運命に追い込まれていく民衆の苦しみを、この戯曲で対比されているように思いました。

 この戯曲は1832年にパリのコメディ・フランセーズで初演されたものの、たった1日で上演禁止となったそうですが、それも頷けます。

 オペラの台本では、王に対する憎悪が観客に生じないように表現をやわらげているようです。そしてもう一つ、次に述べるように「モンテローネ伯爵の呪いが成就する」というストーリーを大枠に持ってくることで、権力批判をカモフラージュしているようです。

オペラでは呪いの成就という大枠を被せた

 オペラのラストでリゴレットは、マントヴァ公爵の身代わりとなった娘の死体を抱いて、「ああ、あの呪いだ!」と叫びます。この結末になんかとってつけたような印象を感じるのはぽん太だけでしょうか。ちょっと強引な伏線回収で、違和感があります。

 モンテローネ伯爵の呪いが成就するというのがテーマだとしたら、リゴレットがその呪いから逃れるためにいろいろするとか、観客にとっても思いがけない形で呪いが成就するといった展開が必要だと思います。

 ユーゴーの原作では、道化のトリブレの最後の言葉は「おれは自分の子供を殺してしまった!」です。

 リゴレット - Wikipediaによると、ヴェルディや台本作家は、フランスで上演禁止になっている戯曲を元にしたオペラが上演できるように配慮し、『サン・ヴァリエの呪い』あるいは『呪い』というタイトルに変えようと考えました。このときに呪いが成就するというストーリーの枠組みが被せられたと思われます。

 原作ではサン・ヴァリエの呪いに関しては、トリブレは娘を自宅からさらわれた時に「おれは呪われた」と言います。またサン・ヴァリエの2回目に登場でして牢に引き立てられていく時、国王に向かって「呪いはかなわなかったのか」と言いますが、トリブレは「そんなことはない、呪いをかけられたもう一方の俺は、娘を王に奪われて罰に苦しんでいる」と言いかえす場面があり、以降は呪いの話はでてきません。

 しかしオペラでは、リゴレットは「おれがマントヴァ公爵を殺すことで、モンテローネ伯爵の呪いを成就してやる」と言って王の殺害を企てたものの、最後はリゴレット自身が呪いを受けて娘を殺してしまう、というストーリーになってます。

公演情報

リゴレット
作曲:ヴェルディ
会場:新国立劇場オペラパレス
日時:2023年5月28日 14:00
公式サイト・https://www.nntt.jac.go.jp/opera/rigoletto/

【指 揮】マウリツィオ・ベニーニ
【演 出】エミリオ・サージ
【美 術】リカルド・サンチェス・クエルダ
【衣 裳】ミゲル・クレスピ
【照 明】エドゥアルド・ブラーボ
【振 付】ヌリア・カステホン

リゴレット】ロベルト・フロンターリ
【ジルダ】ハスミック・トロシャン
マントヴァ公爵】イヴァン・アヨン・リヴァス
【スパラフチーレ】妻屋秀和
【マッダレーナ】清水華澄
【モンテローネ伯爵】須藤慎吾
【ジョヴァンナ】森山京
【マルッロ】友清 崇
【ボルサ】升島唯博
【チェプラーノ伯爵】吉川健一
【チェプラーノ伯爵夫人】佐藤路子
【小姓】前川依子
【牢番】高橋正尚

【合唱指揮】三澤洋史
【合 唱】新国立劇場合唱団
管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団

鶏は水中の死骸の上で鳴く「菅原伝授手習鑑」2023年5月国立劇場文楽第二部

 初代国立劇場さよなら公演として、文楽「菅原伝授手習鑑」の通し上演が行われています。

 令和5年5月は、第一部で初段、第二部で二段目の上演です。ぽん太は両方見に行く元気はなかったので、仁左衛門の菅丞相が記憶に残る歌舞伎の「道明寺」が含まれる二段目を見に行くことにしました。

 ちなみに「杖折檻の段 」「東天紅の段 」「宿禰太郎詮議の段 」「丞相名残の段 」が、歌舞伎では「道明寺」と呼ばれています。最後のところで道明寺の功徳や伝説を詠い挙げるからです。

 「東天紅の段 」では、時刻を錯覚させるために鶏を夜中に鳴かせるというくだりがあります。その方法ですが、箱の蓋に鶏を乗せて、遺体が沈んだ池に浮かべるというものです。遺体の真上で鶏が時を告げるのだそうです。

 ぽん太はそんな言い伝えは聞いたことないし、これまで検索しても出てこなかったのですが、こんかい改めて検索したら少し情報を得られたので、皆様にもご紹介したいと思います。

 このブログでは、観劇の感想と、ニワトリが水中の遺体の真上で鳴くという言い伝えについてよりみちします

感想:和生の覚寿、玉男の菅丞相、千歳大夫の語り

 国立劇場文楽はいつも満席ですが、この時はなぜか空席が目立ちました。なぜでしょう?

 最初の「道行詞の甘替」は、ぽん太は歌舞伎も含めて初めて見ました。満開の桜の下、飴売り姿の桜丸が、桜飴の口上を言い立てます。桜丸だけに桜飴……。ところが天秤棒の両側に下げた箱からは、飴ではなく苅屋姫と斎世親王が現れます。二人の駆け落ちに桜丸がお供をしていたのでした。大勢の太夫と三味線が床からこぼれ落ちんばかり。華やかな舞台でした。最後に飴を買いに来た子供の親の噂話から、菅丞相が筑紫に島流しになり、摂津の安井で「風待ち」をしているという情報を聞きつけます。

 ちなみに摂津の安井は、現在の大阪市福島区近辺です(大阪市福島区野田の旧町名継承碑「安井町」 : 大阪どっかいこ!)。

 続いて「安井汐待ちの段」。あれ? 「風待ち」じゃなかったんかい!

 この段は、1983年の大阪朝日座以来40年ぶりの上演とのこと。安井に駆けつけた一行は、菅丞相の護送をしていた判官代照国(役目で護送を行ってますが、実はいい人)に面会の許可を求めますが、許されません。逆に、潔白を証明するために苅屋姫と斎世親王が別れるべきだと諭されます。そこに苅屋姫の姉の立田前が現れ、母・覚寿との暇乞いのために汐街のあいだ菅丞相を預かりたいと申し出ます。照国は情けをかけ、菅丞相と刈谷姫を土師の覚寿の館に向かわせ、また親王と桜丸は御所へと旅立っていきます。

 ちなみに土師は現在の藤井寺市で、土師ノ里という駅名も残ってますね。現在、道明寺があるあたりです。

 「杖折檻の段」で和生が遣う覚寿の出が素晴らしかったです。怒りに満ち、毅然とした態度で杖を振り上げて現れた瞬間、場の雰囲気が一変しました。その後も様々な心情をきめ細やかに表現してくれました。

 「丞相名残の段」の菅丞相は、ぽん太は歌舞伎の仁左衛門の演技がとにかく印象に残っています。芸やテクニックではなく、人間そのものの格というか、人品が問われるお役です。これを個性のない人形がいったいどのように表現するのかと思っていたのですが、玉男の遣う菅丞相は深い情を抱えながらも「神性」さえ感じさせたから不思議です。

 千歳太夫も気迫に溢れ抑揚に満ちた熱演。でも、ふと語っている姿を見るとタコ入道みたいでギャップに驚きます。だけど時々また見たくなってしまうのが不思議です。

水死体の真上で鶏が鳴く?

 土師兵衛が夜中に鶏を鳴かすため、箱の蓋に鶏を乗せ、立田前の亡骸が沈む池に浮かべるシーンがあります。それを見て大人気ないと大笑いする宿禰太郎に向かって、土師兵衛は次のように答えます。

 「惣別渕川へ沈んで知れぬ死骸は鳥を舟に乗せてその死骸の在り処で刻を作る」(総じて淵や川に沈んでどこにいるかわからない遺体を探すときは、鶏を舟に乗せて探すと、遺体の真上で鳴く)。

 ぽん太はこのような言い伝えは聞いたことがなく、前から気になってました。

 台本がわからない時にまずチェックする白水社の『歌舞伎オン・ステージ』を見ても、この部分はスルーされていて注釈がありません。検索しても何もヒットしないので、わからないまま宿題となっていたのですが、今回改めて調べたらそれらしい情報が見つかりました。

 小池淳一「境界の鳥 ーーニワトリをめぐる信仰と民俗ーー」国文学研究資料館紀要 文学研究篇 259-273, 2018-03-15(pdf)の最初の節が「ニワトリのまじないー水中の死者を探す呪法」というタイトルになってます。

 これによると、青森県のある地域では海で遭難者が出た場合、船に雌鳥を乗せて遭難場所に行くと、溺死者がいるところでけたたましく鳴くという言い伝えがあり、また雌鳥の声を聞くかせると遺体が浮かび上がってくるとも言われているそうです。また静岡県沼津市でも、子供が海に流されて亡くなったとき、タライに鶏を入れて流すと、鶏が鳴いたところに死体があるといった言い伝えがあるそうで、こうした言い伝えは日本各地に広く分布していると思われると述べています。

 また神話の森のブログ | 時を作る鶏というブログには、松前健他著『古代日本人の信仰と祭祀』大和書房、1996年という本から引用して、数年前に愛知県の女子大生が殺されて川に投げ込まれる事件があったとき、なかなか遺体が上がらないので、近隣の住民が小舟にチャボを乗せて捜索している光景がテレビに映っていて驚いた、という話が書かれています。

 小池淳一はこうした呪法の資料を遡り、1756年の黒川道祐『遠碧軒記』や、加賀藩10代藩主・前田重教の略年譜『泰雲公御年譜』の1765年の記載、1777から刊行が始まった谷川士清『倭訓栞』などに同様の記載があること指摘し、近世期に鶏で水難者を探す方法は広く知られていたと推測しています。

 しかし、こうした呪法がいつ頃どこで生じたのかについては書かれていません。

 「菅原伝授手習鑑」の初演は1746年ですから、上の資料とだいたい同じ時代になります。当時水死体の上で鶏が鳴くという考え方が広まっていて、それを取り入れて詞章を書いたという可能性が考えられます。

 しかし、もう一つ別の考え方もあります。先の資料の年代をよく見てみると、「菅原伝授手習鑑」の初演よりも10年以上あとになっております。じつは鶏の話は「菅原伝授手習鑑」における創作で、この文楽と、同年に行われた歌舞伎化の大ヒットによって、こうした呪法が庶民のあいだに広まったという可能性もあります。

 これ以上は今のところはよくわからないので、また機会があったらよりみちしたいと思います。

公演情報

2023年5月文楽公演
国立劇場
公式サイト・https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2023/5512.html
鑑賞日:2023年5月24日
第二部
通し狂言「菅原伝授手習鑑」 二段目  

道行詞の甘替
    楳茂都陸平=振付
 桜丸:希太夫、斎世:小住太夫、苅屋姫:碩太夫、ツレ:薫太夫、文字栄太夫
 清志郎、清𠀋、燕二郎、清方 
安井汐待の段  
 睦太夫、勝平
杖折檻の段
 芳穂太夫、錦糸
東天紅の段 
 小住太夫、藤蔵
宿禰太郎詮議の段 
 呂勢太夫、清治
丞相名残の段
 切)千歳太夫、富助

人形役割
 舎人桜丸:玉佳
 里の童:玉征
 里の童:勘昇
 苅屋姫:蓑紫郎
 斎世親王:玉勢
 里の娘:蓑悠
 里の女房:勘次郎
 判官代照国:清十郎
 立田前:一輔
 宿禰太郎:玉助
 伯母覚寿:和生
 土師兵衛:簑二郎
 菅丞相:玉男
 贋迎い:簑太郎
 奴宅内:紋吉
 官人・腰元・輿舁・水奴・近習・雑色:大ぜい