ぽん太のよりみち精神科

たんたんたぬきの精神科医ぽん太のブログです。ココログの「ぽん太のみちくさ精神科」から引っ越してまいりました。以後お見知り置きをお願いいたします。

「リゴレット」の原作ユーゴー『王者の悦楽』を読む(新国立オペラ2023年5月28日)

 新国立劇場の『リゴレット』を観に行って来ました。なかなか素晴らしい舞台で、とても楽しめました。

 このブログでは、オペラに詳しくないぽん太の感想はちょっとだけにして、リゴレット』の原作であるヴィクトル・ユーゴーの戯曲『王者の悦楽』をよりみちします。

感想:清純無垢なハスミック・トロシャンのジルダ

 今回の新国立の『リゴレット』は、エミリオ・サージの新演出とのことですが、ぽん太は新国立の以前の演出は観たことはありません。

 抽象風な舞台装置ですが、衣装は当時のスタイル。極端な読み替えもないオーソドックスな演出ですが、殺し屋のスパラフチーレと妹のマッダレーナが性的関係を持っていたのには、なんでわざわざここにねじ込んで来たのかと疑問に思いました。全体的に地味で、ドラマチックさにはちと欠ける気がしました。

 第1幕は照明が暗く、ぽん太は仕事の疲れから時折り意識が遠のきましたが、ジルダのアリア「慕わしき御名」で目がばっちり覚めました。ジルダ役のハスミック・トロシャンはまさに清純無垢。歌声も透明で、しっかりしたテクニックで有名なアリアを歌い上げました。

 マントヴァ公爵役のイヴァン・アヨン・リヴァスはペルー人とのこと。誠実で真面目そうな人柄で、スケべで憎たらしい公爵役はちょっと合わない気がしました。しかし歌は尻上がりに良くなっていき、見事な歌声でした。

 リゴレットのロベルト・フロンターリは熟練の安定した芸。そのほか日本人勢も大活躍でした。

 マウリツィオ・ベニーニ指揮の東京フィルの演奏も良かったと思います。新国立合唱団もいつもながら素晴らしかったです。 

原作・ユーゴーの『王者の悦楽』を読む

リゴレット』の原作『王者の悦楽』はAmazonで購入可能

 『リゴレット』の原作は、Wikipediaを見るとヴィクトル・ユーゴーの戯曲『王は愉しむ』(Le Roi s'amuseとなっておりますが、その題名での和訳は見つかりません。

 いろいろと調べてみると、早川善吉という人が『王者の悦楽』というタイトルで和訳しているようで、これが現在にいたるまで唯一の邦訳のようです。元々は1919年(大正8年)に冬夏社が刊行を開始したた『ユーゴー全集に収められていたようです。

 実はこの翻訳、現在も格安のお値段で手に入れることができます。『歌劇『リゴレット』/悲劇『王者の悦楽』 ペーパーバック – イラスト付き』(ANFソフトウェア(サウンド・バンク)、2018年)に収録されています。幻の名著、永竹由幸監修・翻訳の『原作翻訳付きオペラ対訳台本シリーズ』の復刻だそうで、なんとたったの2,750円で、オペラの対訳と原作の翻訳が手に入ります。これはお得!

 ぽん太自身は、近くの図書館に『ユーゴー全集 第4巻 復刻版 』(本の友社、1992年)があったので、それを借りて読みました。こちらも復刻版ですが、Amazonでは現在取り扱いがありません。

 さて、この本の友社の復刻版、文字が小さくて所々かすれてて読みづらいです。おまけに旧仮名遣い。「調戯ひ」って何かとおもったら「からかい」とのこと。そんなん知らんがな。

Wikipediaやその他は原作を『王者の悦楽』に直してほしい

 「リゴレット 原作」で検索すると、ユーゴーの『王は愉しむ』がヒットします。Wikipediaでもそうなっています。

 しかし上に書いたように、この題名での邦訳は存在しません。《Le Roi s'amuse》という原題の直訳『王は愉しむ』を誰かがネットに上げたのが、そのまま受け継がれてネット上に広まっていると思われます。引用とリンクで拡散するネットではよくある現象です。

 『王者の悦楽』という邦訳がすでにあり、それが唯一の邦訳であり、現在も手に入るのですから、訳文は古いけど「オペラ『リゴレット』の原作はユーゴーの『王者の悦楽』」としてほしいと思います。

 ついでにwikipediaで、Le Roi s'amuse》が初演されたのは「フランセ座」となってますが、語学的には「フランス座」で、正確には「コメディ・フランセーズ」です。

 訂正して、偉い人。

ネットで読めるフランス語原文(Le Roi s'amuse)

 ちなみにフランス語の原文は下のサイトで読めます。

 

ネットで読めるオペラ『リゴレット』のイタリア語台本の対訳

 またオペラ『リゴレット』の台本(イタリア語)の対訳は、下記の「オペラ対訳プロジェクト」のサイトにアップされております。いつも利用させていただいております、ありがとうございます。

早川善吉の邦訳はかなりの意訳

 早川善吉の翻訳はかなり意訳です。たとえば冒頭の王のセリフは、フランス語の原文では以下のとおりです。

Comte, je veux mener à fin cette aventure.

Une femme bourgeoise, et de naissance obscure

Sans doute, mais charmante!

 「伯爵よ、わしはこの冒険をうまく成し遂げようと思う。確かに平民で生まれもはっきりしないけれど、魅力的な女だ。」(ぽん太訳)といったところですが、早川善吉訳では次のようになってます(漢字は新字体に変えてあります)。

わしゃ冒険な猟を決してやめまいぞ。あれ程の苦労の実が実るまでは。よしあの女が名もない階級の平民であろうとも!あの女の生まれも解らず、其の名は匿されて居ようとも。それでどうなのだ?わしのこの眼はまだあれ程に美しいものをこれまでにみなかった。

 これは一例で、それ以外にト書きも原作と全然違ってたりします。

 この翻訳が行われた大正時代は、まだ演劇といえば歌舞伎が代表で、そこに小山内薫らが西洋演劇を日本に取り入れようとし始めていた頃でした。この翻訳も、このまま上演することを前提にした意訳だったのかもしれません。

ストーリーやセリフはよく似てます

 さて、ユーゴーの原作は当然のことながらフランスが舞台になっていて、16世紀に実在した国王のフランソワ1世が登場します。道化の名前はトリブレ、その娘はブランシュ、呪いをかける老貴族はサン・ヴァリエです。

 名前こそ違いますが主要登場人物は同じで、ストーリー展開や各場面の順序も、オペラと原作はほぼ一致してます。

 さらにセリフも似ています。例えばオペラの第3幕でリゴレットが殺し屋スパラフチーレに殺す人の名前を聞かれ、「奴の名は罪、おれの名は罰だ」と答えますが、原作にも同じセリフが書かれてます。

 さらに有名な「女心の歌」も、原作で王が似たような歌を歌います。

Souvent femme varie,

Bien fol est qui s'y fie!

Une femme souvent

N'est qu'une plume au vent!

(いつも女は変わる。馬鹿者だけが女を信じる。女はいつも風の中の羽でしかない:ぽん太訳)

原作は権力者の王の享楽と、弱者の民衆の苦しみが対比される

 次に原作とオペラとで違うところを見てみましょう。

 オペラではマントヴァ公爵は、モーツァルトの『ドン・ジョバンニ』じゃないけれど、好色だけどちょっと許されるキャラになってます。でもユーゴーの原作ではフランソワ1世は尊大で権力によって思うがままに享楽を手に入れる徹底的に嫌な奴です。

 オペラではモンテローネ伯爵が、自分の娘をマントヴァ公爵が侮辱したことで激怒しますが、原作ではその事情が詳しく語られます。サン・ヴァリエは王に叛逆を企てたことで絞首台に運ばれますが、ぎりぎりのところで釈免されて命が助かります。しかしそれは交換条件として、サン・ヴァリエの娘が父を救うために王に身を委ねたからだったのです。

 また貴族たちに拉致されて宮廷に連れてこられ怯えているブランシュに対し、国王は傲慢にも「フランスの国も、国民も、財産も、名誉も、快楽も、権力も、すべてわしのものだ。お前もわしのものなんだ」などと言い放ちます。

 さらにオペラのラストで、リゴレットが遺体の入った袋を川に沈めようとしている時、遠くから公爵の歌声が聞こえてきます。ここで公爵が歌を歌った理由はオペラでは明示されておりませんが、何も知らぬ公爵が脳天気に鼻歌を歌っているようにぽん太には聞こえます。しかし原作では、王は自分を殺そうとた何者かが身代わりの死体(さすがにそれがブランシュだとは知りませんが)を運んでいったのを知った上で、殺し屋の妹の手筈で逃げていくのですが、そのさい自分が生きていることをアピールするためにわざとあの歌を歌うのです。

 一方で道化のトリブレは、せむしの不具に生まれたせいでさんざん馬鹿にされて酷い目に遭い、人間としての感情を押し殺して、道化として馬鹿にされててきたことを嘆き、宮廷やその周囲の人々を憎みます。自分の娘だけが生きがいですが、娘には自分の名前さえも教えていないなど、ちょっと病的な感じもします。その娘を手ごめにされたトリブレは、王への復讐を誓います。そうしてついに死体の入った袋を受け取った時、神の如き王が自分の足元に横たわっていることに興奮し、これまで人間以下の扱いをされてきた弱者が、ついにあらゆる力を持つ国王に勝ったのだと喜びをあらわにします。しかし最後には、自分の企てが最も大切にしてきた娘を殺すことだったことを知るのです。

 ユーゴーは、享楽を欲しいままにして罪にも問われずのうのうと暮らす国王と、人に蔑まれ馬鹿にされ、最愛の娘を自ら殺す運命に追い込まれていく民衆の苦しみを、この戯曲で対比されているように思いました。

 この戯曲は1832年にパリのコメディ・フランセーズで初演されたものの、たった1日で上演禁止となったそうですが、それも頷けます。

 オペラの台本では、王に対する憎悪が観客に生じないように表現をやわらげているようです。そしてもう一つ、次に述べるように「モンテローネ伯爵の呪いが成就する」というストーリーを大枠に持ってくることで、権力批判をカモフラージュしているようです。

オペラでは呪いの成就という大枠を被せた

 オペラのラストでリゴレットは、マントヴァ公爵の身代わりとなった娘の死体を抱いて、「ああ、あの呪いだ!」と叫びます。この結末になんかとってつけたような印象を感じるのはぽん太だけでしょうか。ちょっと強引な伏線回収で、違和感があります。

 モンテローネ伯爵の呪いが成就するというのがテーマだとしたら、リゴレットがその呪いから逃れるためにいろいろするとか、観客にとっても思いがけない形で呪いが成就するといった展開が必要だと思います。

 ユーゴーの原作では、道化のトリブレの最後の言葉は「おれは自分の子供を殺してしまった!」です。

 リゴレット - Wikipediaによると、ヴェルディや台本作家は、フランスで上演禁止になっている戯曲を元にしたオペラが上演できるように配慮し、『サン・ヴァリエの呪い』あるいは『呪い』というタイトルに変えようと考えました。このときに呪いが成就するというストーリーの枠組みが被せられたと思われます。

 原作ではサン・ヴァリエの呪いに関しては、トリブレは娘を自宅からさらわれた時に「おれは呪われた」と言います。またサン・ヴァリエの2回目に登場でして牢に引き立てられていく時、国王に向かって「呪いはかなわなかったのか」と言いますが、トリブレは「そんなことはない、呪いをかけられたもう一方の俺は、娘を王に奪われて罰に苦しんでいる」と言いかえす場面があり、以降は呪いの話はでてきません。

 しかしオペラでは、リゴレットは「おれがマントヴァ公爵を殺すことで、モンテローネ伯爵の呪いを成就してやる」と言って王の殺害を企てたものの、最後はリゴレット自身が呪いを受けて娘を殺してしまう、というストーリーになってます。

公演情報

リゴレット
作曲:ヴェルディ
会場:新国立劇場オペラパレス
日時:2023年5月28日 14:00
公式サイト・https://www.nntt.jac.go.jp/opera/rigoletto/

【指 揮】マウリツィオ・ベニーニ
【演 出】エミリオ・サージ
【美 術】リカルド・サンチェス・クエルダ
【衣 裳】ミゲル・クレスピ
【照 明】エドゥアルド・ブラーボ
【振 付】ヌリア・カステホン

リゴレット】ロベルト・フロンターリ
【ジルダ】ハスミック・トロシャン
マントヴァ公爵】イヴァン・アヨン・リヴァス
【スパラフチーレ】妻屋秀和
【マッダレーナ】清水華澄
【モンテローネ伯爵】須藤慎吾
【ジョヴァンナ】森山京
【マルッロ】友清 崇
【ボルサ】升島唯博
【チェプラーノ伯爵】吉川健一
【チェプラーノ伯爵夫人】佐藤路子
【小姓】前川依子
【牢番】高橋正尚

【合唱指揮】三澤洋史
【合 唱】新国立劇場合唱団
管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団