ぽん太のよりみち精神科

たんたんたぬきの精神科医ぽん太のブログです。ココログの「ぽん太のみちくさ精神科」から引っ越してまいりました。以後お見知り置きをお願いいたします。

湯ヶ野温泉福田家と小説『伊豆の踊子』を比較検討してみたよ

 2022年11月下旬、ぽん太とにゃん子は伊豆の福田家に泊まってきました。15年ぶり2回目の宿泊です。

 福田家は「伊豆の踊子の宿」と銘打っておりますが、ノーベル賞作家の川端康成がこの宿に泊まった時の体験をもとにして、名作『伊豆の踊子』を書いたことで有名です。その後も川端は何度もこの宿を訪れたました。また『伊豆の踊子』はこれまで6回映画化されておりますが、そのロケ地としても使われています。

 この宿の宿泊記はいっぱいあるので、このブログでは『伊豆の踊子』における福田家の記述についてよりみちしてみました。

 

川端康成伊豆の踊子』は青空文庫では読めません

 川端康成が『伊豆の踊子』を発表したのは1926年(大正15年)、26歳の時です。

 タヌキのぽん太は、『伊豆の踊子』と聞いても、映画で山口百恵が裸で風呂から飛び出してくるシーンしか思い出せません。というか、ぽん太10代の時のその印象が強烈すぎて、他の記憶が飛んでしまったのかもしれません。ということで改めて原作を読み返してみました。

 残念ながら川端康成の作品は青空文庫では読めません。川端康成が他界したのは1972年ですから、70年後の2042年まで著作権があるためです。図書館で借りるか買うかしてお読みください。Youtubeには朗読の動画がアップされているようです(→【朗読】伊豆の踊子 - 川端康成 <河村シゲル Bun-Gei朗読名作選> - YouTube)。

 あらすじを10秒でまとめます。

 「ひねくれた若者が憂鬱から逃れるために伊豆に一人旅に出ます。若者は途中で出会った旅芸人一座の中にいた踊り子に淡い恋心を抱きます。純真な踊り子との交流のなかで、若者の心が解きほぐされていきます。」

 この作品は過去6回映画化されています。

  1. 1933年、松竹キネマ、(題名『恋の花咲く 伊豆の踊子』)、監督:五所平之助、踊子:田中絹代、私:大日方伝
  2. 1954年、松竹、監督:野村芳太郎、踊子:美空ひばり、私:石浜朗
  3. 1960年、松竹、監督:川頭義郎、踊子:鰐淵晴子、私:津川雅彦
  4. 1963年、日活、監督:西川克己、踊子:吉永小百合、私:高橋秀樹
  5. 1967年、東宝、監督:恩地日出夫、踊子:内藤洋子、私:黒澤年男
  6. 1974年、東宝、監督:西川克己、踊子:山口百恵、私:三浦友和

 それぞれの作品で福田家がどのように扱われているのか、というのはちょっと興味がありますが、さすがにぽん太はそこまでよりみちする気にはなれませんので、またの機会があったら……。

主人公「私」の旅の日程は

出発から下田までの宿泊地

 小説『伊豆の踊子』で、天城峠に近づいた「私」は、次のように書いています。

一人伊豆旅に出てから四日目のことだった。修善寺温泉に一夜泊り、湯ヶ島温泉に二夜泊まり、そして朴歯の高下駄で天城を登ってきたのだった。

 天城峠茶店で踊子たち旅芸人一行に(3度目に)出会った「私」は、そこから共に旅をし、その夜は湯ヶ野の温泉宿に宿泊。小説には旅館名は書かれておりませんが、ここが「福田家」ですね。

 当初は翌朝出発の予定でしたが、連泊することになったた旅芸人たちの勧めで、「私」は2連泊します。

 湯ヶ島を立った「私」と旅芸人一行は、その日のうちに下田に到着し、「甲州屋」という木賃宿に宿泊。翌朝下田港から、船で帰途につきました。

下田ー東京間で船中泊したのか?

 さて問題は、「私」が乗った船が、その日のうちに東京に着いたのか、それとも船内で一泊したのかという点です。小説を読んでもよくわかりません。

 東海汽船のサイト(航路・所要時間|伊豆諸島へ行く船旅・ツアー|東海汽船)を見てみると、現在は東京ー下田間の直通の船便はありませんが、ほぼ同距離と思われる東京ー新島の所要時間を見てみると、高速ジェットで最短2時間20分、大型客船で最短8時間30分となっております。ちなみに東海汽船の大型客船「さるびあ丸」の速度は20ノット(約38km/h)とのこと。

 『伊豆の踊子』の元になった旅を川端康成がしたのは1918年(大正7年)ですが、この頃の近海の客船って、いったいどういう状況だったんでしょう。ぽん太はまったく知識がありません。検索してみても、時代による船の速度の変化はよくわかりません。仮に10ノットだったとすると、下田ー東京は17時間ぐらいかかることになります。これだと船中泊ですね。

 小説をもう一度じっくり読み直してみます。出発の日の朝7時に「私」が甲州屋で食事をしていると、踊子の兄の栄吉が迎えにきます。甲州屋は現在もGuest Hause 甲州屋(https://guesthouse-koshuya.com)として営業しており、当時の下田港がどこだったのかわかりませんが、歩いて10分から20分という感じです。

 港で待っていた踊子にも見送られ、「私」は「はしけ」で「汽船」に向かいます。帆船ではなくて蒸気船で、はしけで船まで行ったようです。

 土方風の男がひとりのお婆さんを「私」に託し、「霊岸島へ着いたら、上野の駅へ行く電車に乗せてやってくんな」と言います。船は東京の霊岸島(現在の新川)行きだったようです。

 船が出航してしばらくしたところで、「海はいつの間に暮れたのかも知らずにいたが、網代や熱海には灯があった」と書かれています。ええ? 網代や熱海って、まだ半分も来てないじゃん。そこで日が暮れて灯りが灯ってるってことは、やはり当日には着かないってことですね。

 「明日の朝早く婆酸を上野駅へ連れて行って水戸まで切符を買ってやるのも、至極あたりまえのことだと思っていた」。やはり翌日の早朝に霊岸島に着くようです。

 「船室の羊燈(ランプ)が消えてしまった」。船内での就寝時間ですね。

 船が夜通し運行したのか、あるいは途中のどこかでしばらく停泊していたのか、ぽん太にはわかりません。

結論:「私」の旅の日程

 結論です。「私」の旅の日程は以下のような7泊8日となります。

 違ってたら教えてください、偉いひと。

1日目 一高の寮を出発し、修善寺
2日目 湯ヶ島
3日目 湯ヶ島
4日目 湯ヶ野泊
5日目 湯ヶ野泊
6日目 下田(甲州屋)泊
7日目 船中泊
8日目 早朝に霊岸島到着

川端康成自身の旅の日程

 川端康成が『伊豆の踊子』の元になる伊豆旅行をしたのは1918年(大正7年)。川端は当時19歳で一高の2年生でした。小説のなかの「私」は20歳と書かれていますが、これは脚色ではなく、数え年でしょう。数え年は生まれた時点で1歳とし、その後正月を迎えるたびにプラス1歳となります。日本では1902年(明治35年)に公的には数え年が廃止されて満年齢を使うことになりましたが、実際に民間では戦前まで数え年が使われていました。

 さて川端康成の旅は、一高の寮を出発し、修善寺湯ヶ島・湯ヶ野を経て下田へ抜け、そこから船で帰途につくというもので、『伊豆の踊子』とコースは全く同じです(Wikipedia - 川端康成)。

 日程はWikipediaには「10月30日から11月7日まで約8日間」と書かれてますが、なんだそりゃ? 「約8日間」って。10月30日から11月7日までだったら8泊9日だと思いますが。昔は今日の昼に出発して、明日の昼に帰ってくるのを、約1日間の旅と行ったのでしょうか? Wikipediaは古い研究書の記述を丸写ししているのかもしれませんね。

 さて8泊9日だと、『伊豆の踊子』の旅よりも1日多いようです。福田家の女将を取材した記事(文豪の息吹 今でも部屋に 「踊子」舞台 河津の福田家【伊豆に息づく 川端康成没後50年②】|あなたの静岡新聞)には、川端康成は福田家に11月2日から3泊したと書かれていますから、そうだとすると帳尻が合います。ただ女将が「小説そのものです」と言っているのが気になります。小説では2泊ですから。

 ということで、川端康成の伊豆旅の日程は以下の通りです。

1日目 一高の寮を出発し、修善寺
2日目 湯ヶ島
3日目 湯ヶ島
4日目 湯ヶ野泊
5日目 湯ヶ野泊
6日目 湯ヶ野泊
7日目 下田(甲州屋)泊
8日目 船中泊
9日目 早朝に霊岸島到着

伊豆の踊子』に描かれた福田家

下田街道からのアプローチ

 『伊豆の踊子』で湯ヶ野に着いた「私」は、最初は踊子たちと同じ木賃宿に入りますが、しばらくして別の温泉宿に案内されます。その様子は次のように書かれています。

 私達は街道から石ころ路や石段を一町ばかり下りて、小川のほとりにある共同湯の横の橋を渡った。橋の向うは温泉宿の庭だった。

 当時の下田街道がどこを通っていたかわからないのですが、現在の国道414号の信号から福田家の方向に斜めに下っていく道が、下のgoogleマップのように、古い街道の面影を残しているようにぽん太には感じられます。

 1町というのは約109mで、実際にはこの道から河津川にかかる橋までは約50mですから、ちょっと距離感が違うように思えます。しかし石段を降りて共同浴場の横の橋を渡ったところに温泉宿があるという描写は、まさしく福田家さんに他なりません。

 ただ、「橋の向こうは温泉宿の庭だった」という表現からは、ひょっとして当時は橋が少し下流側、宿の玄関の真正面あたりにあった可能性も考えられます。

「私」=川端康成が泊まった部屋は踊子1?

 『伊豆の踊子』の「私」=川端康成が泊まったのは、「踊子1」という部屋だそうです。橋を渡ってちょうど正面の2階です。

 玄関から入って帳場まわり。この辺りは新しくなっているようですね。奥の階段を2階に登っていきます。

 「踊子1」の部屋は、前回泊まった時に見学だけさせていただきました。7畳+8畳の二間続きで、細工が行き届いた立派な部屋です。

 宿泊料金は他の部屋よりちょっと高いだけなので、ぜひ泊まってみたいところですが、人気があってなかなか空いてません。

 『伊豆の踊子』に次のような記述があります。

 男が帰りがけに、庭から私を見上げて挨拶をした。

「これで柿でもおあがりなさい。二階から失礼」と言って、私は金包みを投げた。

 やはり部屋は2階のようですね。

 しかし一方、次のような描写もあります。

部屋は薄暗かった。隣室との間の襖を四角く切り抜いたところに鴨居から電燈が下がっていて、一つの明りがニ室兼用になっているのだった。

 現在の二間続きの立派な客室は、いくらエリートが約束された一高生とはいえ、19歳の学生が留まるにしては高級すぎるような気がします。当時は7畳と8畳は別の客室として使われていたのではないでしょうか。泊まった部屋が川に面した7畳だったのか、それとも8畳だったのかは、『伊豆の踊子』を熟読してもよくわかりませんでした。

 なおブログによっては、「なるほどこの部屋からだと向かいの共同浴場から飛び出してきた踊り子がよく見える」などと書いてあるものがありますが、原作をよく読んでみてください。

 翌る朝の九時過ぎに、もう男が私の宿に訪ねて来た。起きたばかりの私は彼を誘って湯に行った。

……彼に指ざされて、私は川向こうの共同湯の方を見た。湯気の中に七八人の裸体がぼんやり浮んでいた。

 仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと……

 「私」が共同浴場の踊り子を見たのは、宿の温泉からです。

榧風呂から共同浴場の踊り子がホントに見えたのか?

半地下にあるので見えるはずがない

 こちらが「私」が入った榧(かや)風呂です。1Fの脱衣所らか中に入ると半地下に湯船があります。

 温泉が低い位置で自噴している時、このように掘り下げたところに湯船を作ることがあります。ただ温泉分析書をみると現在はポンプで汲み上げているようです。川端康成が止まった頃に自噴だったのかポンプだったのか、ぽん太にはちょっとわかりません。

 上の写真の左上の方向が河津川で、ここから「私」が川の反対側の踊り子を見たのですね。

 し、しかし……。どこから見たのだらう?

 窓はあるものの、とても高い位置にあり、温泉に浸かっている「私」からは空しか見えません。

こちら側の壁が抜けていた?

 こちらのブログ(伊豆の踊子の宿「福田家」 - 鉄道と自転車でプチ冒険に出よう)によると、ソースは書かれていませんが、上の写真の右上のタヌキの置物の後ろの壁が昔はなくて、そこから共同浴場が見えたと書かれています。しかし、この方角は川の下流方向になると思うのですが……。

  Googleマップからの画像です。

 「伊豆踊子の宿 福田家」のベッドマークがあるのがほぼ温泉の位置。河津川の向かいの「湯ヶ野温泉」という表示のベッドマークがあるのが共同浴場です。福田家の建物は河津川に向かって左向きに斜めに建ってますから、確かに上の写真の方角に共同温泉が見えることになりますね!!  これはビンゴかもしれません!!!

それにしても地下になってしまう

 しかしまだ疑問が残ります。この写真の向かって左の出っ張っているところの、縦に桟が入っている窓が榧の湯の窓ですが、写真からわかるように窓の位置が地面すれすれです。そうすると例のタヌキの背後の壁は地中部分になってしまいます。

 一つの可能性としては、榧風呂は元々は河津川に面して一段低いところに作られていたが、後に護岸工事が行われて石垣が作られて、半地下になった、と考えられます……が、よくわかりません。

 ちなみにこちらは、橋の上から対岸を撮った写真になりますが、中央やや左の茶色っぽい建物の一階が、共同浴場になります。けっこう距離がありますから、川端康成は超ドアップで踊子の裸を見たわけではなさそうです。

 共同浴場は地元民専用ですが、福田屋のホームページには、宿泊者は入浴可能と書いてあります。こんかいぽん太は仕事の疲れから入りに行く元気がなかったのですが、とても後悔しております。

 

基本情報

住所:静岡県賀茂郡河津町湯ヶ島236
公式サイト ・
福田家 | 伊豆の踊子の宿
温泉:カルシウムーナトリウム・硫酸塩温泉    
   源泉掛け流し(加水(?)加温(?)循環(?)消毒(?))
設備:シャワートイレあり、無料Wifiあり 
料金:電話で予約したスタンダートプラン 1階10畳和室
   2名1室、1人19,800円