ぽん太のよりみち精神科

たんたんたぬきの精神科医ぽん太のブログです。ココログの「ぽん太のみちくさ精神科」から引っ越してまいりました。以後お見知り置きをお願いいたします。

今は亡き坂本からのメッセージ《TIME》坂本龍一 + 高谷史郎


 新国立劇場に《TIME》を見に行ってきました。坂本龍一の一周忌が初日という公演で、内容的にも彼がどう死と向き合ったかという問題と切り離せないものでした。われわれが当たり前に生きている現実が、いかに危うくはかないものであるか、それゆえいかに愛おしいものであるかを問いかける作品でした。

 坂本龍一の音楽、高谷史郎の映像に、舞踏家の田中泯、笙(しょう)奏者の宮田まゆみ、ダンサーの石原淋が出演。暗い舞台上には大きな四角い水盤があり、舞台奥の大きなスクリーンに様々な映像が映され、水面に反射して美しかったです。

現実の儚さを意味する3つの物語

 作品中に『夢十夜』、『邯鄲』、『胡蝶の夢』という三つの物語が引用されます。

 最初の物語は夏目漱石作『夢十夜』の第一話で、田中泯の朗読(の録音)が流れ、同時にその英訳がスクリーンに映し出されます。

 死につつある女との約束で、男は女が会いに戻るのを百年間待ち続けます。どれだけ待ったのかもわからなくなり、ひょっとして騙されたのかと思い始めた時、白い百合の花が咲くのを見て、既に百年経っていたことに気づきます。

 とても幻想的・耽美的で、夏目漱石がこんな文章を書くとは知りませんでした。『夢十夜』は青空文庫にアップされおり(夏目漱石 夢十夜 - 青空文庫)、短いのですぐ読めます。スクリーンに英訳が出るのは、初演が外国だったからでしょうか。

 次の『邯鄲』は、元々は唐の沈既済(しんきせい)の伝記小説『枕中記』(ちんちゅうき)で、盧生(ろせい)という貧乏な書生が、栄華を得られるという不思議な枕を仙人から借りて寝たところたちまち出世し、波瀾万丈の後に栄華を極めて幸福な一生を送ります。ところがそれは、火にかけた粥が炊きあがってもいない短い間に見た夢に過ぎませんでした。

 この話は「邯鄲の夢」あるいは「邯鄲の枕」と呼ばれる故事になっていて、「栄華なんて続かないものだ、儚いものだ」という意味で使われるようです。ちなみによく誤解されますが、邯鄲は夢を見た人の名前ではなく、夢を見た場所の地名ですね。

 しかし今回の舞台で朗読されたのは、それを題材にした能の『邯鄲』です。どう生きればいいのか迷っていた盧生が高僧に教えを請いに行く旅の途中、宿の女主人から借りた不思議な枕でうたた寝します。栄華を極める夢を見るのは同じですが、この世の全ては一瞬の夢のように儚いことを悟り、旅の目的は果たせたと帰途につきます。人生そのものの無常を悟るというところが、いかにも日本的ですね。

 能では小宮(こみや)と呼ばれる作り物が、宿屋の寝床になったり、宮殿の玉座になったりして使われますが、《TIME》ではシンプルな長椅子が効果的に使われていました。そういえば今回の舞台の四角い水盤は能舞台のようでもありました。

 最後の『胡蝶の夢』は「荘子」に出てくる話で、昔荘子が蝶になった夢を見て楽しくひらひらと待っていたが、ふと目が覚めると自分は元の荘子。しかし考えてみると、荘子が蝶になった夢をみていたのか、蝶が荘子となった夢を見ているのか、実際のところよくわからない、というものです。

 これは朗読はされず、書のような漢文が短時間スクリーンに映ったのち、英訳が示されるだけでした。日本人にはかえって理解しにくかったかも。

 なんでこれだけ朗読がないのでしょうか。3つの話にはどれも夢が出てきて、現実の存在感があやふやになるという点では共通していますが、『胡蝶の夢』だけは今回のテーマである「時間」が入っていません。それでもなお坂本が『胡蝶の夢』を入れたかったということは、だんだんと関心が「時間」から「現実の儚さ」に移っていったからかもしれません。

がんと生きた坂本龍一

 2024年4月7日に放映された「NHKスペシャル Last Days 坂本龍一 最後の日々」(Last Days 坂本龍一 最期の日々 - NHKスペシャル - NHK)は、死を間近にした坂本龍一の未公開の日記や映像を使った見応えのある番組でした。2020年12月11日の日記には、余命半年の告知を受けて「現実なのか、現実感がない」と書いています。人は死を意識すると、これまで当たり前と思っていた日常の現実が、いかに虚構であったかがわかると言います。先日の大河ドラマ「光る君へ」でも、疫病で九死に一生を得たまひろ(紫式部)が、『荘子』の胡蝶の夢の部分を書き写してましたね。

 坂本は2020年6月にニューヨークで直腸がんと診断され、放射線抗がん剤による治療を受けました。ところがそれとは別に11月に受けた人間ドックで、肝臓への転移が見つかりました。放置したら余命半年、強い抗がん剤で苦しい治療を行っても5年生存率は50%と宣告され、強いショックを受けて落ち込んだそうです(坂本龍一「ステージ4」のガンとの闘病を語る | ニュース | Book Bang -ブックバン-)。彼の日記には、「安楽死」「死刑宣告」「俺の人生終わった」などの言葉が書かれました。しかし次第に彼は、残りの人生を音楽に捧げようと思いなおします。2021年1月の20時間に及んだ手術ののち、「これからは“ガンと生きる”ことになります。もう少しだけ音楽を作りたいと思っていますので、みなさまに見守っていただけたら幸いです」というコメントを公表しました。

 2021年3月3日の日記には、「入院中、音楽を聴けない、雨の音しか聴けない感覚を忘れずに作品を作ること」と書かれています。今回の舞台の冒頭は、まさにこの雨音だったのですね。

 しかし少し時間的な疑問も湧いてきます。坂本が余命宣告をされたのが2020年12月で、この作品の初演は2021年6月です。約半年の間に絶望のどん底から立ち直り、辛い闘病を続けながらこの作品を創作することは可能だったのでしょうか?

 初演時の作品は今回とは異なっており、その後に坂本の新たな体験に基づいて、作品が改変されたという可能性も考えられます。しかしこちら(TIME, Ryuichi Sakamoto & Shiro Takatani, 2021 | Holland Festival Parels - YouTube)にある初演時のダイジェスト動画を見た限り、今回の上演とほとんど変わっていないようです。

 この作品は余命宣告の4年以上前から構想されていたという情報もあります。ということは、以前から時間をテーマにした作品として構想されていたものに、最後の数ヶ月で坂本の体験に基づく新たな要素が加えられて、完成に至ったのかもしれません。

 こんかいの公演に関する田中泯や高谷史郎に対するインタビュー記事(坂本龍一さん、最後のシアターピースの秘密。『TIME』が紡ぐ物語 - カルチャートピックス | SPUR)やインタビュー動画(坂本龍一最新/最後の舞台『TIME』残席わずか京都4/27.28特別インタビュー※ABCテレビ『スタンダップ』2/29放送) - YouTube)がいろいろ発表されていますが、その辺の事情に関してはあまり語られていないようです。まあ、作品の鑑賞とは別の部分ですからね。

坂本の分身を田中泯が演ずる

 高谷史郎という人はぽん太は全く知りませんでした。検索してみると、日本のWikipediaには載ってませんが、英語版には載っております(Shiro Takatani - Wikipedia)。1963年に奈良で生まれ、京都市立芸術大学在学中にダイムタイプという芸術家グループを立ち上げる。またソロやコラボレーションでも多彩な活動を繰り広げているようです。ジャンルは映像を使ったインスタレーションやパフォーマンスということになるのでしょうか。

 背景のスクリーンに映し出されるのは、抽象的な図象もあれば、田中泯の表情や指先が拡大されたり、字幕となったり、それ自体が照明となったりしました。

 坂本龍一の音楽は、恥ずかしながらぽん太はあまり印象に残りませんでした。舞台上で繰り広げられるものに気を取られ、耳が疎かになっていました。次回チャンスがあったら、音楽もじっくり聴きたいです。

 以前から舞踏には比較的興味があるぽん太ですが、田中泯は「鎌倉殿の13人」の藤原秀衡役で見ただけで、一度生の舞台を見たいと思っていましたが、ようやく願いが叶いました。ボロのようなガウンをまとい、ゆっくりした動きの中で、坂本の分身ともいえる老人を踊りきりました。石垣の前で所在ない動きをする映像の自分に、影のように田中泯が絡むシーンは、死を前にして自分のこれまでの人生を慈しんでいるかのようで、涙がこぼれました。

 宮田まゆみは笙を拭きながら、冒頭とラストに登場。冒頭では観客を一気に夢幻の世界に引き込み、ラストでは現実へと送り返してくれました。今回の舞台が一種の宗教的儀式であると感じました。ただ、せっかくナマで吹いている笙の音がマイクを通して会場に流されていたのは、ぽん太的にはちょっと残念な気がしました。しかし生の音とスピーカーを通した音を差別することは、音響技術が発達した現代では時代遅れの感覚なのかもしれません。

 石原淋、ただ寝ているだけのシーンが多かったですが、『夢十夜』での存在感は素晴らしかったです。

 上演が終わっても客席は静かなままで、出演者が挨拶に出てくるのをじっと待っていましたが、ちょっと間をおいて客席後方から高谷史郎が前方に出てきてお辞儀をして、ようやく拍手が起きました。出演者のカーテンコールがないのもちょっと意外でした。出演者は、音楽や美術、映像などと同じく舞台の構成要素のひとつに過ぎないという考え方なのでしょうか。昭和人間のぽん太にはよくわかりませんでした。

 今回の舞台を実現させた音響、映像の技術者や、舞台制作スタッフの努力にも惜しみない拍手を送りたいと思います。

 

公演情報

TIME
坂本龍一 + 高谷史郎

音楽 + コンセプト:坂本龍一
ヴィジュアル・デザイン + コンセプト:高谷史郎

2024.3.28〜4.14 新国立劇場中劇場
2024.4.27〜4.28 ロームシアター京都メインホール

公式サイト:TIME|JAPAN PREMIERE 2024

出演:
田中泯(ダンサー)
宮田まゆみ(笙奏者)
石原淋(ダンサー)

能管:藤田流十一世宗家 藤田六郎兵衛 (2018年6月録音)

照明デザイン:吉本有輝子
メディア・オーサリング、プログラミング:古舘健、濱哲史、白木良
衣装デザイン:ソニア・パーク
衣装制作:ARTS&SCIENCE
プロダクション・マネージャー:サイモン・マッコール
舞台監督:大鹿展明
FOHエンジニア:ZAK
撮影助手:新明就太
映像グラフィックデザイン・アシスタント:南琢也
音響エンジニア:アレック・フェルマン(KAB America Inc.)
音響エンジニア・アシスタント:竹内真里亜(KAB America Inc.)、近藤真(オフィス・インテンツィオ)
制作アシスタント:湯田麻衣(Kab Inc.)

夏目漱石夢十夜〈第一夜〉』、『邯鄲』 英訳:サム・ベット
『邯鄲』 現代語訳:原瑠璃彦
胡蝶の夢』 英訳:空音央

コンセプト立案協力:福岡伸一

プロデューサー:リシャール・キャステリ、空里香、高谷桜子
共同製作:ホランド・フェスティバル(アムステルダム)、deSingel (アントワープ)、マンチェスター国際芸術祭 共同制作:ダムタイプオフィス、KAB America Inc.、エピデミック プロダクション&ツアー・マネジメント:リシャール・キャステリ、フローレンス・ベルトー(エピデミック)