仁左衛門と玉三郎の「切られ与三」を観に歌舞伎座に行ってきました。今回は1等席。しかもなんと最前列を取ることができました。
ここのところずっと3階席の常連だったぽん太ですが、コロナの時期のリベンジ消費と、自分の老い先も短くなってきたので仁左衛門・玉三郎を観れるのも長くないな〜と思って、奮発してみました。1等席で観るのは新しい歌舞伎座になってから初めてかも。今年が歌舞伎座新開場十周年だそうですから、少なくとも10年以上1等で観てなかったことになります。
でもやっぱり近くで見るといいですね〜。表情や体の動きがよく見えるし、息遣いも伝わってきて、役者さんの身体を感じることができます。
開演前に大道具さんが、ぽん太のすぐ近くに舞台から客席に降りる階段を設置。「切られ与三」の舞台から降りて客席を歩くお楽しみで、至近距離で仁左さんを観ることができました。
これからは観劇回数を少し絞ってでも、いい席で見たいな〜。
このブログでは、ぽん太が公演を見た感想と、それぞれの演目の豆知識をご紹介します。
『与話情浮名横櫛』
感想:今にも泣き出しそうな仁左衛門の表情
今回のお目当ては仁左衛門・玉三郎の『与話情浮名横櫛』。一等席の最前列、上手寄りでスタンバイ。4月5日から仁左衛門が体調不良で休演したと聞いた時は気が遠くなりましたが、8日から復帰の知らせで一安心。
ところが入れ替わりで左團次が休演し、15日に他界されたというニュースが。上品で大らかで、ちょっとユーモラスな演技が心に残っております。ご冥福をお祈りいたします。
「見染の場」の仁左衛門の与三郎はちょっと上方のつっころばし風ですが、仁左衛門ファンのぽん太としては、見ていて思わず顔が綻びます。対する玉三郎のお富は、すらりとした立ち姿に風格と気品が漂います。そして二人の出会い。なんか初恋の時のトキメキがぽん太の遠い記憶の中から蘇ってきます。羽織落としもあざとさがなく自然で、出会った瞬間に恋に落ちて我を忘れている姿は、気高さすら感じました。
赤間別荘での相引きも、遊び人と芸者のねっとりした感じではなく、初々しい感じ。しかしそこはお富が深川芸者の貫禄を見せ、ためらう与三郎をリードして寝間に追い込んでいくのには、ちょっと笑いました。
「源氏店」では、座席が上手側だったので、格子の外で佇む仁左衛門の姿が見れなかったのが残念。ここはこの演目の見ところの一つなんですが。
「しがねえ恋の情けが仇」から始まる名台詞では、ぽん太の席からは仁左衛門の顔が真正面から見えたのですが、仁左衛門の表情には怒りや恨みはありません。むしろ、次第に泣き出しそうな表情へと変わっていきました。生死もわからなかったお富さんに再び会えたことの喜びと同時に、「俺はお前が好きで好きでたまらなかったから、こんな体になり、こんなに身をやつしながらもお前を片時も忘れず思い続けてきたんだ。それなのにお前は俺のことを忘れて、他人のめかけになってのうのうと暮らしてるなんてひどいじゃないか。俺の気持ちをわかってくれ」という思いが込み上げてきて、このような表情になったのでしょうか。
幕切れで与三郎がお富を「もうお前を離さない」と抱きしめるのは、あんまり見たことない演出のような気がしましたが、仁左玉の切られ与三は前からこうでしたっけ? ぽん太はよく覚えてません。
江戸のカラッとしたイナセさではなく、上方のしっとりした人情劇でもなく、西欧の舞台のような印象を受けました。
蝙蝠安の市蔵、「夏祭」の義平次など嫌なやつをやらせたら右に出るものがありません。いやったらしくて良かったです。松之助の番頭平八も飄々として滑稽でした。
三世瀬川如皐による河竹黙阿弥に先駆けての七五調
この作品は「しがねえ恋の情けが仇」で始まる七五調の名台詞が有名です。ぽん太は、七五調といえばとうぜん河竹黙阿弥の脚本だと思っていたら、なんと三世瀬川如皐の作とのこと。
誰それ?
検索してみると(瀬川如皐 (3代目) - Wikipedia)、三代目瀬川如皐(せがわじょこう)は1806年(文化3年)に生まれ1881年(明治14年)に死去。幕末から明治にかけて活躍したそうで、『四谷怪談』などで有名な鶴屋南北に師事したそうです。本作の他には、ぽん太の知ってる演目では、『佐倉義民伝』や『松浦の太鼓』の作者なんですね。やっぱり、黙阿弥に先駆けて七五調の台詞を使ったことで知られているんだそうです。
『与話情浮名横櫛』の全体のあらすじもWikipediaをどうぞ(与話情浮名横櫛 - Wikipedia)。
今回の上演は、序幕から三幕目の途中まで。このあとも延々と話は続き、全八幕とも九幕とも言われており、最後は与三郎の傷が消えてめでたしめでたしで終わるのだそうです。
な、なんか退屈そうですね……。
長唄の4代目芳村伊三郎とお政の実話に基づく
この演目は実話に基づいており、長唄の4代目芳村伊三郎(1800年〜1847年)が若い頃に木更津で体験したことが元になっており、お富さんのモデルは「お政」という名前でした。1992年1月8日の読売新聞朝刊に『歌舞伎「与話情浮名横櫛」の主人公 本当に生きていたとは“お富さん" モデルは「お政」幻の“肖像画"』という記事があることを突き止めましたが、図書館まで閲覧しに行く元気がありません。そのうち元気がでたら調べてご報告したいと思います。
お政と河鍋暁斎の関係
元気が出たので調べてきました。
記事の内容は、東京芸大生が卒論で「河鍋暁斎が描いたとある絵巻の中の三味線を弾く女性がお政である」と主張した、というものでした。「河鍋暁斎 お政」で検索してもヒットしないので、けっきょく定説にはならなかったようです。
でも、記事にはいろいろ興味深いことが書かれてました。
三田村鳶魚の『芝居ばなし』―鳶魚江戸文庫〈35〉 (中公文庫)などによると、お政は木更津の親分明石金右衛門の囲いもので、芳村伊三郎はなぶり切りにされたものの、二人は木更津を抜け出して江戸で世帯を持ち、女の子を儲けました。伊三郎は間もなく亡くなりましたが、お政は長唄の師匠などをして明治11年(1878年)に63歳で他界したそうです。
河鍋暁斎の娘からの聞き書きをまとめた篠田鉱造の「父暁斎を語る」(雑誌「邦画」昭和11年)によると、晩年のお政は日本橋の小間物問屋「勝田屋」に三味線の師匠として出入りしていて、勝田屋の主人がお政を連れてお富与三郎の芝居を見に行ったところ、お政が「あんなんでござんした」と笑っていたそうです。また勝田屋は画家河鍋暁斎のパトロンでしたから、勝田屋を通じてお政と暁斎は顔見知りでした。
というつながりで河鍋暁斎が勝田屋のために描いた「極楽めぐり」という絵巻にお政が描かれている、というのがこの芸大生の主張のようですが、信じるも信じないもあなた次第です。
『連獅子』
感想:清新で迫力ある左近の仔獅子
ぽん太は踊りの良し悪しはよくわからないのですが、左近くんの仔獅子が、とてもキビキビしていて、小さい身体ながら全身を目一杯使い、まさに全身全霊を注いだ踊りで、強い印象を受けました。毛振りも勢いがあって、客席から大きな拍手が湧き上がりました。
今後がとっても楽しみです。
能の『石橋』(しゃっきょう)が原点
歌舞伎には能を題材にした演目が多くあります。能舞台をまねて正面に松が描かれた舞台装置が使われるので、「松羽目物」と呼ばれます。『連獅子』もそのひとつで、能の『石橋』(しゃっきょう)が題材になっています。
『石橋』がいつごろ誰によって作られたのかはよくわからないようです。『石橋』のさらに元となる物語があるのかどうかは、検索してみたけどわかりませんでした。
あらすじは以下の通りです。
唐の仏跡を訪ねまわっていた寂昭法師が、清涼山の麓にたどり着きます。そこには細く長い石橋が架かっています。法師が意を決して渡ろうとすると樵が現れ、ここから先は文殊菩薩の浄土で尋常な修行では渡る事はできない、もうすぐ菩薩が現れるのでここで待つように、と言い残して消え去ります。やがて荘重なお囃子が聞こえてきて、獅子が勇壮な舞を繰り広げます(『日本古典文学全集 34 謡曲集 2』小学館、)。
最初に『連獅子』として歌舞伎化されたのは1861年(文久1年)で、獅子の子落としが題材に河竹黙阿弥が作詞、二世杵屋勝三郎作曲で「勝三郎連獅子」と呼ばれます。ついで1872年(明治5年)、同じ黙阿弥の歌詞に三世杵屋正治郎が曲をつけ、こちらは「正治郎連獅子」と呼ばれます。現在演じらているのは、こちらの曲です。二人のお坊さんが滑稽な掛け合いをする「宗論」は、1901年(明治34年)東京座の舞台で付け加えられたそうです(『新版 歌舞伎事典』平凡社)。黙阿弥の死後ですから、他の誰かが台詞を書いたと思われます。
獅子が踊るのは、文殊菩薩の乗り物だから
こんかいあらかじめ印刷した歌詞を見ながら舞台を観たところ、仏像ファンのぽん太、なぜ獅子なのかがわかりました。
『連獅子』の舞台となっている清涼山は、上に書いたように文殊菩薩の聖地です。文殊菩薩の仏像や絵は、古くから獅子に乗った姿で表現されるのです。下は奈良の西大寺の文殊五尊像(文殊菩薩 - Wikipedia)ですが、真ん中にいる文殊菩薩は獅子の上に座ってますね。
文殊菩薩が獅子に座るお姿が、なんらかの経典に基づくのかどうか、調べてみたけどよくわかりませんでした。
歌詞のわかりにくいところを調べてみました
『連獅子』の歌詞のわかりにくいところを調べてみました。
歌詞は下にリンクしたサイトにアップされています。
清涼山(せいりょうざん)
中国にある五台山(ごだいさん)のことで、古くから文殊菩薩の聖地として信仰を集めてきました。平安時代や鎌倉時代に日本から中国に渡った僧たちも、ここを訪れたそうです。現在はユネスコの世界文化遺産に登録されているそうです。
清涼山に文殊菩薩が住んでいるということは、東晋の佛馱跋陀羅が5世紀前半に漢訳した『華厳経』に書かれています。ところが清涼山の場所は、漠然と「東北の方向」としか書かれていません。『華厳経』はもともとインドの経典で、漢訳した佛馱跋陀羅もインド人ですから、清涼山はインドの東北にあったと考えられます。やがて唐の時代になって、「清涼山は、中国にある五台山のことだ」という考えが出てきて、五台山文殊信仰が広まっていったそうです(文殊五尊像の形成と展開.pdf)。
「宗論」の部分でで僧蓮念が「こたび思い立って、天竺、清涼山に登り」と言ってますが、天竺はインドのこと。ひょっとして宗論の歌詞を作った人は、清涼山が元々はインドの山だったことを知っていたのでしょうか。
八十瀬川(やそせがわ)
固有名詞としては鈴鹿山脈を流れる川の名前のようですが、ここでは「多くの瀬を持つ川」という意味でしょうか。
都、本国寺
京都の山科区にある本圀寺(ほんこくじ)。日蓮宗の大本山(本圀寺(ほんこくじ)公式サイト)。
大和国、黒谷
黒谷といえば、大和(奈良)ではなくて京都の金戒光明寺を思い浮かべてしまいます(浄土宗大本山・くろ谷 金戒光明寺)。「奈良 黒谷」で検索してもヒットしません。
金戒光明寺は浄土宗の大本山です。徳川家康が浄土宗の熱心な信者だったことで、徳川家と浄土宗は関係が深かったから、「宗論」が作られた明治5年にはワケアリだったのでしょうか? よくわかりません。
日蓮上人は日蓮宗の開祖。浄土宗の開祖は法然で、一遍上人は浄土宗の一派である時宗の開祖。
ごずいでんでん、ずいきの功徳は広大に…
『法華経』のなかに「随喜功徳品」という章があり、随喜(ずいき:法華経を聞いた大いなる喜び)について書かれています。この随喜を芋の茎の「ずいき」とひっかけた地口ですね。
一念弥陀仏 即滅無量在
正しくは一念弥陀仏 即滅無量「罪」。阿弥陀仏を念じるだけであらゆる罪を消すことができるという意味で、出典は不明(一念彌陀仏即滅無量罪(いちねんみだぶつそくめつむりょうざい) - コトバンク)。この後は、この句を使った地口となります。
むざい餓鬼
貧しくて食べることもできない餓鬼のことで、ののしり言葉として使われた(無財餓鬼(むざいがき) - コトバンク)。
江戸時代、法華宗は実践によってこの世界を豊かにすることを説き、商人などの信仰を集めたのに対し、浄土宗は来世(死後)に浄土に生まれ変わることを信じて現世(この世)の苦しみを和らげるよう説きました。そのことを「貧しい境遇を変えようとせずに諦めて我慢する」みたいに皮肉ったのでしょうか?
日蓮宗では、団扇太鼓(うちわだいこ)と呼ばれる太鼓を叩きながら、「南無妙法蓮華経」という「お題目」を唱えます。団扇太鼓は通称「法華の太鼓」とも呼ばれ、「だんだん良くなる法華の太鼓」という言い回しで有名ですね。
一方、浄土宗では鉦を打ちながら「南無阿弥陀仏」という「念仏」を唱えます。さらに一遍上人の時宗では、踊りながら鉦を打ち鳴らし念仏を唱えます。
なもうだ蓮華経、これはいつかな念仏に題目…
法華宗と浄土宗がごちゃまぜになった地口。
南無阿弥陀仏→なんまいだ→なもうだ、と「南無妙法蓮華経」が混ざっています。
「得仏」は成仏すること、「罪障」は成仏の妨げ。浄土宗では「西方」に「阿弥陀」如来がいる浄土があると考えます。このあたりは浄土宗の用語か?
「示現観音」については、法華経には観音菩薩は教化する相手に応じて33の姿で現れると書かれており、これを「普門示現」と言います。
「三世の利益」、三世は「過去・現在・未来」のことで、「利益」(りやく)は仏の恩恵。日蓮は『祈祷経送状』のなかで「三世の御利益」という言葉を使ってます。
全体として、法華宗も浄土宗もどちらも同じ、というような意味でしょうか?
「宗論」この部分は今日の上演では省かれてました。こんにちでは省略されるのが普通なのか、それとも今回の公演だけなのか、ぽん太は知りません。
獅子団乱旋の舞楽の砌…
「獅子」と「団乱旋」(とらでん)は、ともに唐から伝わった舞楽の秘曲。「砌」(みきん)は「みぎり」ですから、「まさにその時」でしょうか。
「大巾利巾」(たいきんりきん)はわかりません。文脈を見ると、牡丹の花がかぐわしい香りを放ちながら、まるで「大巾利巾」の獅子頭のように咲き誇り、という感じなので、「大小さまざまに」という感じでしょうか。「利」に「小さい」という意味があるのかどうか、調べてもよくわかりません。
「黄金の瑞」、この言葉もヒットしませんが、「瑞」が「めでたいしるし」という意味ですから、「黄金のようにめでたいしるし」という感じでしょうか。
舞楽の秘曲がどこからともなく聞こえてきて、牡丹がかぐわしい香りを放ちながら咲き乱れる中、文殊菩薩の使いの獅子が舞い踊るとは、なんとすばらしい光景でしょうか。
基本情報
歌舞伎座
2023年4月26日
夜の部
三世瀬川如皐 作
一、与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)
木更津海岸見染の場
赤間別荘の場
源氏店の場
与三郎 仁左衛門
お富 玉三郎
蝙蝠安 市蔵
番頭藤八 松之助
五行亭相生 橘太郎
海松杭の松五郎 吉之丞
お針女お岸 歌女之丞
赤間源左衛門 片岡亀蔵
鳶頭金五郎 坂東亀蔵
和泉屋多左衛門 権十郎
河竹黙阿弥 作
二、連獅子(れんじし)